宵闇の彼方の薄明
「ベルクート? 顔色が悪いみたいだけど……」
「いえ、たいしたことはありません」
「ホントに?」
そのやりとりに、傍らにいたハヅキが、ベルクートの腕をぐい、と引いた。
「!」
いくらいきなりでも、普段ならその程度でぐらつく男ではないのに。
本人も驚いた顔で、その場に膝をついていた。
「これで、たいしたことないだと? さっさと医師に診てもらえ。ちょうど目の前だ」
「遺跡の、あの動く植物の毒が残ってるとか!?」
「本当に大丈夫ですから……」
騒ぎを聞きつけて、初老の女医が医務室から出てきた。
「馬鹿者、毒を甘く見るな。その植物というのは、シンダル族が残した未知の生き物なのだろう?」
百戦錬磨の医師は、どの患者にどう言えば一番効果があるか心得ている。
自分のことには無頓着でも、他人に迷惑をかけることを嫌う、そういう相手には、こんな言葉が一番効く。
「人に伝染るものだったらどうする。隔離だ」
反論を封じられ、ずるずると医務室の隣の部屋に引きずりこまれていくのを、仲間たちは合掌して見送った。
空き部屋のベッドに放り込まれ、ベルクートは戸惑ったまま天井を見上げる。
熱を出すなど、何年ぶりだろう。
いざ横になってみると、思った以上にこたえていたのか、すぐに思考が混濁してきた。
聞き覚えのある声がいくつも聞こえてきたような気がしたが、やがてそれも、霞んだ意識の向こうに消えた。
***
物心ついた時には、すでに闘技奴隷だった。
一体自分は、どのようにここに来たのか。
他の者たちのように、親に売られたか、それとも戦いの中で親を失ったのか。
何も覚えてはいない。
もちろん、幼い頃は闘技試合に出されていたわけではない。
闘技場での荷役や雑用、時には、死んでいった者の片付け――そういったことをやらされていた。
だが、闘技場に出されないからと言って、危険がないわけではなかった。
試合を控え、死におびえる他の者たちは、常に自分よりも弱い者に当たった。
そこは、人を信じては生きていけない場所だった。
誰かが怪我をすれば、自分が勝つ可能性が高まる。
誰かが死ねば、その食料が自分に回ってくるかもしれない。
負傷してもろくな手当てはなく、怪我から熱を出した時も、看病してくれる者などいなかった。
弱い者から死んでいく。
それが当たり前の世界だった。
人の気配がする。
自分の喉に、手が伸ばされる。
今度こそ殺される。
死にたくない。
生き残るには、先に相手を倒すこと。
それだけが、自分に残された手段だった。
***
「……殿下――!?」
手刀は、白い喉笛を突く直前で止まっていた。
そのままなぎ払えば、確実に相手をしとめられる位置だった。
驚きのあまり動けなかったのか、王子は目を見開いたまま、まっすぐに相手を見つめている。
不思議なほどに、殺されかけたという恐怖の色はない。
しばらくして、自分に突きつけられたままの手をつかんだ。
その感触で、ベルクートはようやく我に返る。
闘技奴隷時代の夢を見ていたからか、それとも熱のせいなのか。
目覚めた瞬間のとっさの行動だったとは言え、王子を敵と間違えてしまうなど……!
「申し訳……ありません! 私は、なんてことを――っ!」
慌てて手を引こうとするのを許さず、王子はいつもと同じ顔でうなずいた。
「気にしなくていいよ。声もかけずに近づいたぼくが悪かったんだ」
「し、しかし――!」
「あまり大きな声を出すと皆起きちゃうよ」
しー、と口に指を当てられると、それ以上言い募ることができない。
それに、一体何を言えばよいのかも分からなかった。
自らが決めた主。
よりによって、その相手に殺意をこめた手を向けてしまった。
もし、あと一瞬気づくのが遅かったら。
考えたくもない結果に、今更ながら震えがきた。
「まだ熱あるね。寝てなきゃ」
気づいているのか、いないのか、王子の声は変わらない。
「あの……」
「寝・て・ろ」
シルヴァの口真似と共に、えい、と毛布をかぶせられる。
「シルヴァ先生は、明日になれば毒は抜けるだろうって言ってたけど――あの植物は、シンダル族の残した罠だから、やっぱり普通の薬だけじゃだめだと思うんだ」
ぽう、と王子の右手の甲が淡い光を放つ。
「黎明の紋章を使うほどのことでは……」
「気にしないの。ぼくが使いたいだけだから」
ふわりと広がった光は、青白いけれども暖かい。
熱から生じる身体の痛みが薄れていく。
眠りの封印球の力も含まれていたのか、たちまち睡魔が襲ってきた。
「おやすみ」
遠くで、優しい声が聞こえたような気がした。
***
カチリ、という音に目が覚めた。
周りの石作りの壁に、一瞬ここはどこだろうと迷う。
身を起こすと、部屋に入ってきた白衣の女性が声をかけた。
「熱は下がったか。痺れや痛みは?」
「いえ、大丈夫です」
「ふん、空元気ではなさそうだな。――まぁ、いいだろう」
簡単な診察を済ませ、部屋を出たところに、見慣れた姿があった。
「よかった、元気になったみたいで」
「殿下、昨日は……」
「うん、驚いたよね。シンダル族も、遺跡の守りに、あんな怖い番人置かなくてもいいのに」
「いえ、そうではなくて……昨夜――」
ああ、と王子が笑った。
「ベルクートが寝込んでから、大変だったんだよ。見舞いに行った人たちがあんまり騒ぐもんだから、シルヴァ先生が怒っちゃってね。とうとう部屋にカギかけちゃったんだ」
「カギ……ですか?」
そういえば、先ほど自分は、カギを開ける音で目が覚めた。
「だから、誰も入れなかったんだよ。かえって、よく眠れたんじゃない?」
マリノとかハヅキとかダインとか。
押しかけようとしていた者を数え上げている王子の前で、ベルクートは当惑していた。
では、あれは、熱にうかされての夢だったのか?
だが、あの瞬間の背筋が凍るような感覚が、まだ残っている気がする。
判断に迷い立ち尽くしていると、後ろからばしっとシルヴァに叩かれた。
「邪魔だ。元気になったのなら、朝風呂でも入ってさっぱりしてこい」
「は、はい」
追い出されるようにその姿が消えてから、少し離れたところで様子を眺めていた若い男が、呆れ顔で言った。
「王子さんよ、ホントに何もなかったことにする気か?」
その言葉に、王子が笑い返す。
「なんのこと? 何もなかったことに、じゃない。何もなかったんだよ」
「――俺には関係のないことだけどな。ま、このレーヴン様にかかりゃあ、あんなカギの一つや二つ、ちょろいもん……」
「レーヴン」
ぺらぺらとしゃべり出した自称大怪盗に、王子がさらに笑顔となった。
「オボロさん呼ぶよ?」
目が笑ってない。
「なんでそこで奴が出て来るんだよ!」
唯一の苦手であるオボロは、隣の部屋にいるのだ。
王子がちょっと声をかければ、たちまち背後をとられるに決まっている。
関わってなるものか、とレーヴンは後も見ずに逃げ出した。
二人の話に、やれやれ、とシルヴァがため息をつく。
「まったく……私が昨日の騒ぎに気づかないとでも思っているのか」
にっこりと笑顔で口止めされて、シルヴァは肩をすくめた。
現実だと知ってしまったら、きっと彼は自分を許さない。
最近やっと、当り障りのない笑顔ではない表情を垣間見ることができるようになってきたのに。
また見えない壁の向こうに隠れてしまうに違いない。
だから――昨日は部屋にカギがかかっていたし、何事もなかったのだ。
それでいい。
「ぼくもお風呂入ってこよっと」
最初からそのつもりだったのか、手にはお風呂セットを抱えている。
(いやはや、この子は大物だね)
無邪気な顔で、人を自分から手放さない方法を無自覚に心得ているのが、まったく恐ろしい。
上機嫌で走り去っていくのを、シルヴァは苦笑と共に見送った。
その日。
露天風呂は、何故か朝から大盛況だった。
だが、当の剣士は、内風呂で一人のんびりしていたらしい。
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うちのベルクートさんは、ほたるの紋章つけっぱなしだったので
避けまくるとは言っても毒攻撃も一番被害にあってました……
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