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「碧い翼のドラゴン」



遥か昔。
国は名を持たず、伝説と現実の区別がつかなかった頃の物語。
樫の木とつたの生い茂る森の奥の洞窟に、一等の竜がいた。黄金のたてがみ、青碧色にきらめく翼、見事な古木のような二本の角。
しかし、その美しい姿がまるで見えぬ暗闇の中で、彼は長い長い間眠っていた。自分が何者なのか、どうしてここにいるのかも思いだせない程の時を、たった独りで。
遠くから聞こえてきた音に、彼はふと目覚めた。ゆっくりと起き上がり、眼を開く。
眠りを妨げた物音は、洞窟の外からしたようだった。まとわりつく闇を払い、立ち上がる。淀んでいた空気が、非難の悲鳴と共に耳元をかすめた。
何百年かぶりに洞窟から顔を出すと、まず最初に樹木の香の風が彼を迎えた。眩しい陽光に目を細め、辺りを見回す。海の色の瞳が、動いているものを捉えた。あれは何だろうと考えているかのように、首をかしげる。
深い森の中にも差し込んでくる日差しは、緑の広場に陽だまりを作っている。白いもの――うさぎが跳ね回るそばに、栗毛の馬と小さな人間が立っていた。
葉ずれの音か、鹿の足音ぐらいしか聞こえないはずのこの場所で、いつもと違う気配を感じさせたのは、この者たちであろう。人間を見るのが久しぶりなのと、珍しいのとで、つい彼は岩陰から身を乗り出した。
黄金色のたてがみが風に流れる。
うさぎと遊んでいた少年が、その時、彼の方を振り返った。高貴な家柄なのだろう。赤いマントが鮮やかだ。日の光に透ける、柔らかそうな金髪。優しい碧い瞳。
無邪気な笑顔が、ふいにこわばった。彼を見たのだ。少し高い場所から、自分たちを見下ろしているドラゴンを。
馬もドラゴンの存在に気づいた。自分よりも数十倍も大きい、初めて見る姿にパニックに陥り、暴れだす。あわてて少年は馬に跳び乗った。なだめようと手綱を引くが、馬は怯えきって全速で駆け出してしまった。
驚かせてしまったことに気づいたドラゴンは、当惑気に首をすくめた。
数百年ぶりに見る懐かしい森。立ち並ぶ古い樫の樹たち。樹木の間を流れる小川は少し幅が広くなったようだ。その向こう……馬の駆けていく先が崖となっているのを見て、彼は翼を広げた。
馬がいくら疾走しようと、ドラゴンの飛翔にかなうわけがない。数度羽ばたいただけで、彼はその真上に追いついた。舞い降りる瞬間、その姿は宙空でかき消えた。
馬にしばみついていた少年が、崖に気づいて悲鳴を上げる。崖につっこみそうになった時、少年の後ろから馬の背に跳び乗った者がいた。
青銀の髪の若者。――少なくとも、その姿をした者が。
彼が手綱を引くと、馬は動きを止めた。崖の淵でたたらを踏み、恐る恐る後戻り。けとばされた石が、からからと音を立てて深い谷底に落ちていく。
さっきの広場まで戻って、やっと少年は蒼ざめた顔を上げた。見慣れぬ青銀色の髪の、命の恩人に手を貸してもらい、馬を降りる。まじまじと相手を見つめて、少年は尋ねた。
「もしかして、あなたはさっきのドラゴン?」
まだ声変わりもしていない澄んだ声に、若者は首をかしげた。言葉の意味は分かるのだが、どうやって答えれば良いのか、思い出せないのだ。
「ドラゴンが魔法を使えることは知っていたけど……すごいや! ――もしかして、言葉が通じないのかな?」
初めて見る伝説の生き物を前にしてはしゃいでいた少年の声が、返事がないのでだんだん小さくなっていく。
残念そうに肩を落とした少年を、ドラゴンの化身は黙ったまま見ていた。人間など最後に見たのは、いつのことだったろう。もう思い出すこともできない。
「僕、ユライムっていいます。草原の国の王子です。あなたのお名前は?」
無駄かとは思いつつ、少年はなおも話しかけた。ドラゴンと合える機会など、二度とないかもしれない。国を滅ぼしてしまう恐ろしいドラゴンの話は、よく語り部から聞くが、このドラゴンは、自分を救ってくれたのだ! そして、先ほど見たドラゴンは、今まで聞いたどんな話よりも美しい青銀の翼を持っていた。できることなら、このドラゴンと友達になりたい。
しかし、竜の化身の若者は、何も聞いていない様子で空を見上げただけだった。ユライム王子が落胆の表情になった時、彼は馬の手綱を少年に渡し、空を指差した。
つられて顔を上げると、樹々に見え隠れする空を黒い雲がおおっているのが見えた。
(嵐ニナル。早ク帰レ)
声ならぬ声が、頭に響く。ドラゴンの言葉と気づくまでしばらくかかる。きびすを返した若者を、ユライムは慌てて追った。その腕にしがみつき、必死に引き止める。
「僕の城に遊びに来ませんか。この森に独りきりなんでしょう? ――迷惑ですか? ならあきらめるけど。でも僕、もうドラゴンと会う機会なんてなさそうだし。ね?」
恐れも媚もない無邪気な様子に、ドラゴンは興味を持ったらしい。わずかに口元がゆるんだと見えたのは、気のせいだろうか。
やがて、大粒の雨が木々の葉を深い緑に染め始めた。
駆けていく栗毛の馬の背には、二人の人間の姿があった。

  *

驚きと好奇の視線で、ドラゴンの化身は草原の国の城に迎えられた。珍しい客に王は喜び、盛大な宴を催した。倉が空になるほどの酒、国中から集められた様々な果物。次から次に勧められ、つい食べ過ぎて元の姿に戻ってしまうハプニングもあったが、草原の国の人々は皆、彼に親切だった。
大騒ぎに疲れた様子の彼のために静かな一室をあけてくれ、今はユライム王子と二人きりである。
「フリームファクシ、見てごらんよ」
ユライムが、すっかり暗くなった外を指差す。
王子の隣に立って、窓の外を眺める。闇の中には、地上の星のようにポツリポツリと明かりが見える。
「あの明かりは、みんなこの国の人たちの家の灯りだよ。草原の国にはたくさんの人が住んでいる。みんな優しくていい人ばかりだよ。――僕ら王族の役目はね、彼らが安心して暮らせるように、平和を守っていくことなんだ」
しっかりした口調で呟き、ユライムは窓に腰掛けた。
「草原の国のような国は、他にもたくさんある。海のそばの国、山のふもとの国、肌の色の黒い人々が住む国――。だけど、全てが平和を望んでいるわけではないんだ。……馬鹿なことだと思うよ。僕は争いは嫌いだ。人と人が殺しあうのなんて見たくない。戦争をして、国を滅ぼして、何になるんだろう。勝利の栄光なんて嘘だ。跡に残るのは、屍を廃墟でしかないのに。誰もが何も失わずに平和に暮らせたら、どんなにいいだろう――」
ユライムの声が、ふいに途切れた。目から涙がこぼれぬよう、こらえている。
少年の母は、前の戦の時に殺されたと聞いた。草原の国の豊かな自然と財宝を狙う隣国は、執拗にこの国を攻めているという。決して進んでは応戦せぬ、この小国を。目の前で母親を殺された少年は、一体どんな思いをしたのだろうか。
「僕は大人になったら父様の後を継いで王になるけれど、絶対戦争なんかしなくて済む国を作るんだ。そうなったら、また来ておくれ、フリームファクシ」
無理に微笑みを浮かべて、ユライムは振り返った。ドラゴンの化身の若者が顔を上げる。
「帰るんだろう? いいんだよ、僕に気兼ねしなくても。――また来てくれるって約束してくれればね」
若者がうなずいたので、ユライムは本当の笑顔を見せた。
「ああ、僕はなんて幸せ者なんだろう。ドラゴンを友達に持てるなんて。フリームファクシ、約束だよ。きっとまた来てよ! 忘れて眠ってたりしたら、叩き起こしに行ってやるんだから! ――帰るの? 帰っちゃうんだね?」
ためらいがちに窓から身を乗り出したドラゴンの化身に、半ば涙声になりながら問いかける。
霜のたてがみを持つ者――フリームファクシという名のドラゴンは、困ったように首をかしげた。
王は彼に部屋を用意してくれたが、とどまっていられぬ理由があった。あまりに長い間眠っていたために、人間の姿でいるのは限界があるのだ。いくらなんでも、ドラゴンの姿でここにいるわけにはいかない。せめて体力が戻るまでは、もうしばらく元の姿で休む必要がある。
(スマナイ……)
不思議な声が響く。ユライムはあわてて涙をふいて笑った。
「また来てよね。――気をつけて、フリームファクシ」
微笑み返して、若者を窓枠を飛び越えた。その手、その姿がふいにぼやけ、青碧色の鱗のドラゴンとなる。翼を二、三度打ち振ると、激しい風がまき起こった。
しばらくの間、名残惜しげに城の周りを飛び、彼は森へ向かった。馬では遠い道のりも、飛んでしまえばたいした距離ではない。住み慣れた、静かな暗い洞窟の中に潜り込む。
彼は、目を閉じた。身体が温かくて、いい気持ちだ。百年でも二百年でも眠れそうな気がした。
眠りに落ちる直前に、あの少年の顔が浮かぶ。人間の寿命はそんなに長くないのだった。では、十年後くらに一度起きよう。ユライムはきっと、立派な青年になっているに違いない。
翼に首をつっこみ、ドラゴンは闇の中で動かなくなった。

  * *

彼の目を覚まさせたのは、炎と血の匂いであった。
身体がだるい。
まだ眠りについてから、あまりたっていない証拠だ。あれから一ヶ月くらいか。
この匂いは一体なんだ?
嫌な予感。不吉な死の匂い。
雨の降りそうな空を見上げ、翼を広げる。冷たい霧を含んだ空気が、身体を包む。
広大な森を越え、彼はユライムの城についた。――記憶によれば、あったはずのところへ。
降り立とうとして、彼はためらった。眼下には、この間自分が飛び降りた、高い塔がない。城を囲む大きな砦も。どう見ても、ここは廃墟だ。かつで、人間たちが住んでいたところ。
自分は数ヶ月のつもりで、何百年も眠っていたのだろうか? それとも、あれは全て長い眠りの中の夢だったのか?
崩れ果てた塔から立ち昇る、白い煙が彼の目を引いた。その傍らに舞い降りる。
血の匂いが強くなった。
甲冑を血で染めた兵士が、目の前に倒れていた。瓦礫のそばには、他にも数人の屍が見える。燃えている家、跡形もなく壊された王家の門。
ドラゴンの姿が消えた。同じ場所に青銀色の髪の若者が現れた。しばらくの間辺りを見回し、走り出す。
身軽に瓦礫の山を飛び越え、死体の顔を確かめていく。
大柄な男の身体を瓦礫の下から引っ張り出した時、彼の顔が少し曇った。
草原の国の王だ。彼を親切にもてなしてくれた気さくな人間。ユライムの父親。
そっと横たえて、彼はまた歩き始めた。納屋も酒蔵らしき場所も、どこもかしこも荒らされていた。前に見かけた羊の群れや穀物の袋はなくなっていた。持ち去られたのだろう。
草原の国の象徴とも言うべき、城の大きな樫の根元で、彼は足を止めた。目の前にある物をうつろに眺め、ぼんやりと立ちつくす。
幼い王子がそこにいた。樫の樹によりかかり、目を閉じている。
――胸を、細身の剣で縫いとめられて。
蒼ざめた唇から、血が一筋伝っていた。
痛かっただろうか。苦しんだだろうか。
もう何も答えてくれぬその顔を、ドラゴンは覗きこむ。
(――争いは嫌いだ。人が殺し合うのなんて見たくない)
少年の声が甦る。
(僕が王になったら、必ず闘いのない国を――)
つい一ヶ月前、そう言っていたばかりだというのに。
胸を貫いている剣を抜き、ドラゴンはユライムを地に寝かせた。その身体の上にかざした手がかすかに光ると、ユライムの胸を染めた暗色の紅が消えた。頬にも、わずかに赤味さえ戻っている。
まるで、今にも動き出しそうなほどに。
虚ろな瞳でフリームファクシは空を見上げた。泣くことを知らないのか、それともユライムの死が辛すぎたのか、目に涙は浮かんでいない。
代わりに、重い雲が冷たい水滴を落とし始めた。霧のように視界をぼやけさせる小雨がたちまち大降りとなる。
雨は、泣く事を知らないドラゴンの涙なのかもしれない。
元の姿に戻り、フリームファクシは動かない身体を翼で雨から守った。
やがて雨の勢いが緩んだ頃、彼は空の高みへ飛び立った。
人間の目には分からぬ、人間の歩いた跡を見分け、迷いなく西に向かう。
ユライムが言った通り、この辺りは小国が多い。小さな村、岩陰の城には目もくれず、彼は海辺に急いだ。
波の砕ける崖の上に建つ城を見つけ、その上空で旋回する。
――ドラゴンの怒りは嵐を呼ぶという。
空を、突如黒い雲が蔽った。
城の窓やバルコニーから、怯えた人間たちが顔を出している。
雨が強くなり、雷鳴が轟く。
魔法の力が働いたとしか思えない雷が、城の高い塔と崖に根を下ろす樹に落ちた。土台を失った城が、ぐらりと揺れる。
交錯する悲鳴、怒号。
もう一度雷鳴が響き、スローモーションのようにゆっくりと城が崖もろとも海に消えるのを、ドラゴンは冷たい瞳で見ていた。
今のでどれくらいの人間が死んだだろうか。
彼には関わりのないことだ。
ただ、彼を恐れなかった、彼を友達と呼んだ少年を失った悲しみをはらしたかっただけだ。こんな事をして、あの王子が生き返るわけではないと分かっていても――。
雨に濡れて碧紫色に染まった翼を広げる。
ドラゴンは国を滅ぼす恐ろしい生き物。人間の命をなんとも思わぬ魔性。冷酷で血も涙もない化け物。
昔から、伝説の中でそう語られてきた。
だが、彼を怒らせたのは一体誰だ? 平和を望んでいた幼い命を奪ったのは?
翼の水を払い、彼は住み慣れた洞窟の奥で丸くなった。今は何も考えずに眠りたかった。眠って、何もかも忘れてしまいたい。
ふと、前にもこんな事があったのを思い出す。それを忘れるために、ここで眠ったことを。
時間だけが、苦しいほどの寂しさを癒してくれる。
ドレゴンは首を振って、目を閉じた。いつかまた、誰かが声をかけてくれることを夢見ながら、永い永い眠りにつく。
暗く冷たい洞窟の中で、彼は今でも眠っている――。



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