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「八つの鐘」
非常識だったのは、雨の中、車の前に飛び出してきた若者の方だった。
車を運転していた青年はどなりつけようとしたものの、相手の必死の表情に言葉を飲みこんだ。
身体を張って車を止めた者は、窓ガラスを叩き割りそうな勢いで、こう叫んだのだった。
「お願いします、パリまで乗せてください! 八時までにどうしても行かなくちゃならないんです!」
ちらりと、彼の走ってきた方を見ると、道路の端に大破した車が転がっていた。水にタイヤを取られて、スリップしたのだろう。大きな樹にぶつかった車の正面は、ぐしゃりとつぶれてしまっている。よく、運転していた本人が無事だったものだ。
「お願いです、間に合わなかったら、アリサが……!」
懇願された青年は、普段なら、自分の腕の未熟さで事故った者など相手にしないのだが、この言葉で少し気を変えた。
困っている女性を見捨ててはいけない!
それが彼のモットーなのである。たとえ、それが他人の彼女でも、だ。
それに、彼もこれからパリに戻るところだ。少しくらい寄り道してもいいだろう。
「乗りな」
そっけなく言って、助手席側のロックをはずしてやる。
「どこに行きたいんだ?」
真っ青な顔で乗りこんだ若者は、凍えきった震える唇で、それでもはっきりと言った。
「オペラ座通りの「蝙蝠亭」という店へ」
その言葉に、運転手は少し目を丸くした。それは、彼の行き先でもあったのである。
***
「僕は、悪魔と取引してしまったのです」
信じてくれないからと口篭もる若者を、半ば脅かして理由を言わせたところ、ようやく出た言葉はそんな突拍子もないセリフだった。
沈黙した相手に、若者が叫ぶ。
「だから、信じないって言ったじゃありませんか! ……僕だって、本当に信じているわけじゃない。でも……今日、彼女の手に、契約の印が浮かんだって聞いて……」
「契約?」
彼はうなずいた。
「半年前のことです。父の経営していた会社が、親会社の倒産の影響でつぶれかけたんです。父は心労がたたって入院し、僕が会社を受け継ぎました。でも、経営状態はもう手の施しようがなくて……。それでも、抱えている従業員の為になんとかしなくてはと必死でした。そんな時、夢を見たんです」
真っ青な唇は、雨に濡れて寒いからだけではないだろう。優しげな青い瞳に恐怖が浮かんでいる。
「『俺は悪魔だ。お前の一番大切なものを渡すなら、力を貸してやろう』って、そう言ったんです。黒づくめの男の姿をしていましたが、影は蝙蝠のような翼を持ってました。僕は夢だと思ってたから、投げやりに答えてしまった。『会社を立て直せるのなら、なんだってくれてやる』って。男は笑いながら『契約したぞ。半年後の夜八時。パリの蝙蝠亭にてお前の一番大切なものを頂く。忘れるな』と言って消えたんです。目が覚めて、僕はすっかりそれはただの夢だと思いました。だって、当然でしょう? 『蝙蝠亭』なんて聞いたこともなかったし、悪魔と契約だなんて!」
自分に言い聞かせるように、若者は言った。
気がおかしいと思われたのではと、心配そうに、運転している青年をちらりと見やる。
車から降りろと言われるのではないかと、恐れるように。
しかし、運転している青年は、黙ったままだった。
ほっとして、彼は続ける。
「それから仕事は急に順調になって、わずかのうちに立ち直りました。今までで一番好調なくらいです。もうすっかり、夢のことなど忘れていました。ところが今日ロンドンで、取引できる雑貨店を探している時に、不思議な人とあったんです。大変美しい女性でした。彼女は、僕を見るなり眉をひそめたんです。
『本当にいいの?』
『悪魔と契約したでしょう。こんなところにいて本当にいいの?』
『今夜八時、あなたの一番大切なものが奪われるわよ』
「僕は混乱しました。初めて会った彼女が、どうして夢のことを知っているのか。それに、もしあの夢が現実だったとしても、悪魔が要求した僕の一番大切なものって、僕の魂じゃなかったのかって。……それでも、不思議と彼女が言うことは嘘じゃないと思ったんです。同時に、悪魔が言った『僕の一番大切な物』がなんだったのか、ようやく分かりました」
若者は恐怖と後悔で涙声になっていた。
「それが、契約の印が浮かんだ『彼女』って訳か」
運転している青年のつぶやきに、若者がうなずく。彼はポケットから小さな物を取り出した。黒猫をかたどった木彫りのようだった。
「アリサに電話して、彼女の手に蝙蝠のようなあざが出来たこと、今日からパリに『蝙蝠亭』というレストランが開店したことを聞いたんです。慌てて帰ろうとした僕に、店の女主人はこれをくれました」
『あなたの彼女を思う気持ちが本当なら、一度だけ力を貸してあげる。それを持って契約の場所に行きなさい。でも時間に遅れたら最後よ』
「彼女が、あんたの気持ちを確かめるために、友達を使っておおげさな芝居をした……という可能性もあるよな」
現実的な意見を述べた運転手に、若者はまっすぐな目で答えた。
「パリから出たこともないアリサが? 僕の夢枕に悪魔を立たせたり、ロンドンで初めて寄った店の主人に頼んだって言うのですか? ……いや、それならそれで構わない。彼女に危険がないのならそれでいいんです。でも、もし現実だったら……僕のせいで、彼女に何かあったりしたら、僕は一生後悔する」
「……このまま行っても、とても間に合わないぜ。八時まで、あと三十分。急いでも、一時間はかかる」
真っ青になった若者に、彼はニヤリとした。
「俺は、女性を泣かせるバカは嫌いだけどな、好きな彼女の為にバカになれる奴は結構好きだぜ。気に入った、ちょいと力になってやるよ。」
言うなり、彼は携帯電話を取り上げた。
「よお、アレフ? 今日、三十分くらい遅れそうなんだ。それでな……」
友人だろうか。気軽な調子で、軽い挨拶。その後続けられた言葉に、隣で聞いていた若者がぽかんとする。
「……それじゃ、頼むぜ」
電話を切る直前、向こうからのあきれたような声が聞こえた。
(……そういう小細工していると、愛想をつかされますよ!)
少し怒ったような声だった。それでも、相手はその通りのことをしてくれるだろうと確信できるような、苦笑ぎみの口調。
「しっかり、つかまってろよ。飛ばすぜ」
まだ唖然としている若者に、青年はアクセルを踏み込んだ。
***
結局、車が「蝙蝠亭」についたのは、午後八時半だった。
車の中で、時を刻んでゆく時計を必死でにらみつづけていた若者は、声もなくレストランの中に駆け込む。
ボーン、ボーン……
時計が重々しく時を告げ始めた。
とっさに正面の柱時計を見た若者は、その時刻がまだ八時であることに驚いた。
自分は間に合ったのだろうか?
「驚いている場合か? 彼女はどこだ?」
背中を叩かれて、あわてて辺りを見まわす。
……いた。
店の一番奥、柱時計の脇。
どんな時にも隣にいて、ずっと支えてくれていた優しい娘。自分が一番大切にしている人。
そして、その正面に、忘れようもない黒づくめの男!
男が振りかえるのが見えた。
何故、ここにいるのかと言いたげな驚愕の表情。
鐘が鳴り続ける中、男は娘……アリサに向かって腕を伸ばした。
「アリサに触るな!」
とっさに、若者は、ロンドンで不思議な女性にもらった黒猫の木彫りを投げていた。
それは、空中で突然大きさを増し、本物の黒猫の姿を取り戻した。そのまま、男の首にかじりつく。
すさまじい絶叫と同時に、店内にいた者たちの耳に、はっきりと『まずい!』という言葉が聞こえた。
ボーン……
最後の鐘が鳴り終わった時、店は元通りの静けさを取り戻していた。
もっとも、客たちが呆然としているので、不自然なまでの静けさだったが。
違っているのは、奥のテーブルには男の姿はなく、代わりに蝙蝠の形をした木彫りのようなものが落ちているということだ。
不思議なことに、黒猫の方はなくなっていた。
「アリサ!」
「ユーリ?」
駆けつけた恋人の姿に、亜麻色の髪をした可愛らしい娘はにこりと笑った。
その手は、真っ白でしみ一つなく、美しい。
「来てくれたのね」
「アリサ、すまない、僕がうかつだったために、君をこんなに危険な目に……」
「いいのよ、ユーリ。あの悪魔に『ユリウスの願いの代わりに、彼の一番大切にしているものを頂きに来た』といわれた時、私がどんなに嬉しくて誇らしかったか分かる? それに、あなたはこうして助けに来てくれた。私は世界一幸せ者よ」
「アリサ!」
ひし、と抱きしめ会う恋人たちに、何がなんだかわからないまま、店の客たちがわっと喝采を上げる。
うらやましそうに眺めている青年の傍らに、浅黒い肌の若者が立った。白い、料理人の服を着ている。
「……そんなに物欲しげに見るのはやめてください、リュオンさん」
「だってさー、あんなに可愛い娘だったなんて……。彼女が助かったのって、俺のおかげだぜ? ご褒美にかっさらっちゃおうかなー」
「やめてください、それじゃ、全然意味がないじゃないですか。……それより、あれって、もしかして本物だったんですか?」
「さぁな。でもまぁ、いいイベントになったじゃないか。『蝙蝠亭』開店おめでとう、料理長殿」
「ありがとうございます、オーナー。……それにしても、これでうちが祟られるってことありませんかね」
「……裏で、コンセントを抜いて時計を遅らせてることにも気づかない悪魔なんぞ怖くない!」
蝙蝠の木彫りを拾い上げて、悪魔よりたちの悪い男は高らかに笑った。
十一月二十日
エコードフランス紙より抜粋
劇団ラパンアジルの食堂の料理長が、レストラン『蝙蝠亭』を開店。
都合により土日しか開いていないが、一流レストランと並ぶ味として、訪れた人々を楽しませている。
開店日には、オーナーであるラパンアジルの団長フォーレ氏によるイベントが行われた。
目の前で行われたのにも関わらず、まったく仕掛けの分からない見事な手品と、若い劇団員による寸劇に惜しみない拍手が送られた。
また『蝙蝠亭』では、夜八時になると動き出す、柱時計に飾られた蝙蝠の木彫りが人気を集めているという。
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