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「メリッサの丘」
初夏の風に混じって、かすかにレモンの香が漂う。
眼下に広がる丘陵には、萌え出たばかりの柔らかそうな草が若い緑の葉を競い合っている。新緑の季節、宿った露で草原全体が輝いて見える。
「それじゃ、一時間くらいで戻るから」
車から降りた後、ヨルジュは深呼吸をしている友人に声をかけた。
金の髪を陽に煌かせて、ファンタジー映画にでも出てきそうな顔立ちの少年が振り返る。
「うん、ここで待ってる。お仕事がんばってきてね」
言って、天使のように微笑む。
彼がこんな顔を見せるのは、世界でただ一人。それを、相手が分かっているかどうかは、甚だ怪しいけれども。
丘一つ向こうに建っている家へヨルジュが歩いていくのを見送ってから、シトルイユは草のじゅうたんの上に寝転がった。
足首くらいまでと見えていた草は意外と深く、視界は緑に染まる。傍らに生えていた草から、ふいにレモンの香があふれた。さきほどから漂っている芳香は、これが源らしい。
若葉の匂いとレモンの香が心地よい。草のおかげで、日差しも柔らかい。ここのところの疲れも手伝って、眠気に襲われる。
ヨルジュが戻ってくるまで、のんびりしていてもいいだろうと判断し、シトルイユはうとうとし始めた…その時だった。
「わっ!」
突然の声にシトルイユは飛び起きる。まだ少し寝ぼけた顔であわてて辺りを見回すと、声の主は真後ろにいた。
栗茶色のふわふわした髪をポニーテールにした十歳くらいの女の子だ。にこにこしながら、シトルイユを眺めている。
「こんなところで寝ると、風邪ひいちゃうよ」
―不覚。寝顔など、ヨルジュにだって滅多に見せたことはないのに。いつもなら、人の気配で目が覚めるのに、風の音で気がつかなかったのだろう。
「びっくりした。……この辺に住んでるのかい?」
少女がうなずく。
「生まれた時から、ずーっとね」
ふいに、少女の幼い顔に、寂しげな表情が浮かぶ。
「お兄ちゃんも、『カイハツ』の人?」
シトルイユは意味を捉え損ねて戸惑う。『カイハツ』とは、『開発』のことだろうか。そういえば、ヨルジュがそんな事を言っていたような気がする。……それなら、自分には関係ない。
「いや、違うよ」
「良かった!」
間髪入れず答えるなり、少女は彼の隣にちょこんと座る。
「最近、大人の人がたくさん来るの。ここを『カイハツ』して、工場を作るんだって」
「工場? ここに?」
驚いて、シトルイユは辺りを見回した。
人の手の入っていない、静かな草原。果てしなく広がる緑の園。これがなくなってしまう?
「工場って、ここに建てないといけないものなの?
工場ができたら、お花も咲かないし、ちょうちょもいなくなっちゃうんでしょ、私、嫌だな。今のままがいいのに」
少女は、泣きそうな顔で膝を抱えている。
守りたいのに守れない。大好きなものの為に、自分はなんの力にもなれない。そんなもどかしさや、悔しさ。シトルイユにもよく分かる。
それにしても、少女の言うとおり、こんな都会から離れた丘陵地に工場を建てる必要性などあるのだろうか。何か、言いようのない不快感が込み上げる。数十年後を狙った、「開発の為の開発」なのではないか?
「僕もそう思う。ここはとても綺麗だ。今のままが、好きだよ」
ふと洩らした呟きに、少女は驚いたように振り返り、こぼれそうに見開いた目でシトルイユを見つめた。
そして、急に立ち上がると―突然、傍らに生えている草をめちゃくちゃに引きちぎり始めた。
大好きだと言っていたばかりだというのに、一体どうしたと言うのか。唖然としているシトルイユに向かって、少女はちぎりとった葉を投げつけるようにして、振りまく。
彼らの周りに、レモンの香がたちこめる。
「お、おい、君?」
混乱するシトルイユに、少女は叫ぶ。
「どうせなくなっちゃうんなら、好きだって言ってくれる人に全部あげる!
この草も、この香りも、『カイハツ』の人なんかに残してなんかやらない、お兄ちゃんに全部あげる!」
言いつつ、なおも草をむしろうとするのを、シトルイユはあわてて止めた。
「落ち着きなよ。今日、明日で急に工事が始まるわけじゃないんだし……それに、工場が建つと決まったわけでもないんだろう?」
その言葉に、少女はしゅんとなり、おとなしく頷く。
「……でも、いつかはなくなっちゃうの。私はここにいたいのに、この丘はなくなっちゃう……」
「?」
どこか、遠くへ引っ越してしまうのだろうか?
泣きそうな顔で、少女は手のひらに残った葉を見つめている。
また、レモンの香り。
ちぎれた葉は、風に飛ばされて草原の緑に消える。
「お兄ちゃん以外にも、ここを好きって言ってくれる人、いるかなぁ」
何もない、草だけが広がる丘。―しかし、それが美しい。
「もちろんだよ。ここを、このままにしておきたいって人は、きっとたくさんいる」
シトルイユの答えに、少女はまた草の一枝を摘んだ。
「ふーん……それなら、いいや」
にこり、と笑って、それをシトルイユに渡す。
「これが枯れる前に、また来てね」
どこかで聞いたような言葉だな、と重いながら、シトルイユは受け取り、それを胸ポケットに刺した。
飾り気のない只の葉も、彼が身につけると豪華なコサージュのように見える。
「ばいばい、お兄ちゃん。またね」
顔を上げた時には、少女は駆け出していた。背の高い草の群れに、その姿はみるみる隠れていく。
「おーい、君、名前は?」
口に手をあてて、シトルイユは叫んだ。訓練を積んだ声は、風にも負けず、丘に響き渡る。
「メリッサ!」
遠くから、こだまのようにかすかな声が返ってきた。草の陰から、手を振ったのを最後に、少女の姿は視界から消えた。
*
三十分もしただろうか。日が少し傾きはじめている。
「お待たせしました、王子様」
寝転がっていたシトルイユに声をかけた者がいる。
仰向けのまま、シトルイユはぱちりと目を開いた。眠っていたわけではない。気配でヨルジュが戻ってきたのも分かっていた。ただ、なんとなくギリギリまで、草の中に埋もれていたかった。
「ここが工場になるって本当?」
年かさの友人が、おや、と目を丸くする。
「誰かに聞いた?」
「この辺に住んでるって女の子に会ったんだ。この草原がなくなるって、哀しんでいたよ」
「そうか……」
ヨルジュが隣に腰を下ろす。軽くついたつもりのため息が重い。
その隣に、シトルイユも身を起こし、座り直す。
「ヨルジュの仕事って、この事?」
「うん、まぁ……」
珍しく、歯切れが悪い。
しばらくの間考えてから、ヨルジュは口を開いた。
「今回の依頼人は、この辺りに住んでいる狐や鳥なんだ」
「は?」
さすがのシトルイユも、何のことかときょとんとする。
「狐が裁判するの?」
「正確には、自然保護団体が主催だけどね。原告はあくまで動物たちの名を用いるんだ。―代理裁判っていう方法なんだけど」
「工場なんか建てるなーって、動物たちが訴えるわけだ」
「そういうこと」
また、ため息。行動を開始すれば、迷わず進むタイプの腕利き弁護士にしては珍しい。勝算が薄いのか?
「そんなに手強い相手なの?
ヨルジュがそんなに困った顔するなんて」
「手強いというか……うーん、こういうのが一番やっかいなんだよな」
「工場のこと?」
「いや、現在のこの土地の持ち主」
この丘一帯は、先ほどヨルジュが訪ねた一軒家の主の名義なのだという。
そこには、一人の女性が住んでいた。―過去形だ。
「半月前、そのおばあちゃんが亡くなったんで、困ったことになったんだ。彼女には孫夫婦がいるんだけど、生前贈与なんてやっていなかったから、これだけの土地分の相続税が、彼らにどかっとかかっちまった。そんなに地価の高い場所ではないけど、これだけの広さだ。個人でいきなり払うのは難しい」
「それで、売り出すことに?」
「そう。売り出そうと考えていたら、たまたま用地を探していた工場主が、名乗りをあげたわけだ。ところが、それを知った自然保護団体が、待ったをかけた。こんなに自然の残っているところを開発するなんて、とんでもないってな」
ヨルジュが困っている理由が、飲み込めてきた。
「でも、この土地の持ち主は、決してお金もうけで売ろうとしているわけじゃないんだね」
「そういう事。税金対策とか言って、意味のない建物でも建てるつもりなら、容赦なく叩いてやるつもりだったんだけど……。いい人たちなんだよ、困ったことに。『おばあさんの残した土地は守りたいけれど、とても払える金額じゃない。本当は生まれてくる子どもの為にも自然は残したいんだ』って、奥さんに泣かれてしまったよ」
人情家のヨルジュは、こういう話に弱い。裁判で争うことになる相手を前にしていた時には、さぞ困り果てていただろう。
「赤ちゃん、生まれるんだ」
「あと3ヶ月くらいって言ってたな。――自分たちだけなら、なんとかするけれど、子供にお金のことで苦労はかけたくないってさ」
「うん、それは分かる……」
今は自他共に認める大金持ちとはいえ、苦い経験を持つシトルイユがつぶやく。
二人して、また大きなため息。
ふいに、ヨルジュが話題を変えた。
「工事のこと話した女の子って、この辺りに住んでるって?」
「うん。メリッサって名前だよ」
「変だな。この辺には、あの家しかないはずなんだけど。それにしても、メリッサか。この丘にちなんでつけたのかな」
「え?」
「メリッサは、この草の名前だよ。別名、レモンバーム」
言って、ヨルジュは傍らの草を引っ張る。
また、レモンのような香り。
「ここは、メリッサの丘と呼ばれているそうだ。珍しいレモンバームの群生地だからね。そういえば、これは、君の香りだ」
「僕の?」
目を真ん丸にしているシトルイユに、ヨルジュはくすくすと笑う。
「レモンバームの香りの主成分はシトラール。果物のシトロンと同じだ。……君の名前は、バスク語でシトロンだろう?」
「僕の香りかぁ……」
胸ポケットの一枝に顔を寄せ、シトルイユがつぶやく。
甘い、レモンの香り。
「さ、そろそろ帰ろうか。裁判のことは、明日ゆっくり考えるさ」
ヨルジュが立ち上がり、車に向かって歩き始める。
その背に、シトルイユが声をかけた。ちょっと甘えたような、誰も逆らえなくなる魔力のこもった微笑みつきで。
「ね、ヨルジュ。相談があるんだけど」
その瞬間、強い風が吹いて、辺り一面にレモンの香りをふりまいた。
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シトルイユ=ラウシュタニア様
おかげさまで、祖母の愛したメリッサの丘はこのまま、残されることになりました。
ここに住んでいる動物や鳥たちも、安心して暮らしていける事でしょう。
亡くなった祖母も、喜んでいると思います。
この美しい場所を守る機会を下さったことを、心から感謝します。
追伸
娘が生まれました。
メリッサと名づけました。是非、会いにきてください。
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※ 蛇足。
本に掲載した時は、シトルイユが土地権利書を持っているイラストがついていました。
つまり、シトルイユが買い取って、夫婦に管理をお願いしちゃったんです。