辿れぬ記憶 ――追悼曲(ラメント)



初めて名前を呼ばれた。
それが、自分の名なのだと思った。

けれど、そいつが呼んだのは、俺ではなかった。

――初めて得た感情は、怒りだったのか、失望だったのか。

   ***

最初の記憶は、ベネスの繭。
漂っていたソーマの塊であった自分は、別の生き物の身体に入った時に初めて「意思」を持った。
アレーティアやソーマに関する知識は、遺伝子に刻み込まれた本能に近い。
それに加えて、この身体の元の持ち主の記憶は、膨大なデータベースのようなものだ。
望めば、必要な情報だけを取り出すことができる。
この世界で行動するのに、なんの支障もなかった。
だが俺は、フェデルタの力で無理やり放り込まれたせいか、他のウンブラスの連中とはあきらかに違った。
俺にはアレーティアに対する忠誠心といったものがない。
そんなことはどうでもよかった。
思い通りに動く身体と、元の持ち主が持っていた力を手に入れたことが嬉しかった。
セクンダディへの潜入を引き受けたのは、自分の力がどれ程のものなのか、知りたかったからだ。
扉や鍵といった物理的な障害も、銃や術を持って立ち向かってくる人間も、自分を止めることなどできなかった。
マスターとやらがアポクリファを使いこなしていたのは予想外で思わぬ遅れをとったが、次の機会があれば、もっと上手く立ち回れるという自信があった。
それなのに。
奴らは、そんな俺を出来そこないだの、はみだし者だの言いやがった。
認められなかったのが悔しくて、俺は奴らから距離を置いた。
一人でいることは苦ではないが、時間を持て余して、身体の持ち主の記憶を辿ってみるようになった。
その記憶には、理解できないものがいくつもあった。
組織だの、階級だのにがんじがらめになって、どうしてその中で過ごすのだろう。
これだけの力があれば、自由に外で生きられるはずなのに。
それに、もう一つ。
カギがかかったような、特別な記憶。
なんだろうと、こじあけてみる。
ある一人についての思い出だった。
他がモノクロ写真みたいな「情報」であるのに、この一人だけ鮮やかな色つきの映像に見えた。
その人間に対するいくつもの感情が、ごちゃまぜになっている。
憧れ、羨望、嫉妬。
それらに似ていて、そのどれとも違うような。
他の情報はすんなりと取り込めたのに、この記憶は上手くなじまない。
触れることを拒否されたようで、苛々する。
それなのに、記憶を手繰るたびに、つい探してしまう。
理解できない情報の中で、その相手が元の持ち主に向けた笑顔が、忘れられなくなった。

   ***

アドニスを止めようとする人間たちがいることは知っていた。
邪魔をする「敵」であれば、倒してしまえばいいだけだ。
けれど、その中に見覚えのある顔を見つけた。
そいつは、アドニスでもフェデルタでもなく、まっすぐに俺を見ていた。
「エレオス!」
俺だけに向けられた声。
けれどそれは、俺に対するものではなかった。
そうと知った瞬間、俺を支配した感情はなんだったのだろう。
期待を裏切られた失望と怒り。
――期待?
自分はこいつに何を望んでいたというのか。
こいつが知っているのは、元の持ち主。
この反応は当たり前のこと。
それなのに、あの記憶が自分のものだったような錯覚に陥りかけていた。
やり場のない苛立ちがひどく不快で、尚も呼び止めようとする声に背を向けた。

   ***

リングタワーの結界を抜け、浮遊大陸まで追って来た奴らには、正直感心した。
彼らは、地上に戻れないかもしれない。
それなのに、何故そんなに必死に立ち向かってくるのだろう。
人間というのは、不合理で分からないことが多すぎる。
フェデルタに、こいつらの相手をするよう命じられた。
なんで俺がとも思ったが、腕の立つ奴らと遊ぶのはいい暇つぶしだ。
それに――。
『あいつ』を片付けておきたかった。
あれさえいなくなれば、わけのわからないあの不快な感情から開放されるに違いない。
二度、三度と、急所を押さえて格の違いを見せ付けてやる。
それにしても。
何故こいつは向かってこないのか。
やる気のない奴を撃つのは面白くない。
他の連中も、互いをかばいあって足を引っ張り合っている。
こんな奴らは俺一人で十分。
倒せば、アドニスも、ウンブラスの連中も、俺を認めるはず。
終わりにしようとした時。
突然、そいつが動き始めた。
なんだ、こいつ。
さっきまでと、動きが全然違う。
二度、三度、と先手を取られて驚いた。
何故今までこれだけの力を隠していたのだろう。
思い当たるのは、一つだけ。
この身体の持ち主を罵ったこと。
たったそれだけ。
他人のために、何故そんなに。
スピードも、技術もほぼ互角。
だが、無限のソーマの力を得られる分、俺の方が上だ。
何度目かの接戦の後、互いの銃が正面から向き合った。
――向けられた目が憎悪や恨みであったなら、俺は迷わず引き金を引いていた。
けれど。
はしばみ色の目は、ただ静かな哀しみだけを湛えていた。
俺の攻撃を避けるつもりがないことは、構えから見て取れた。
相撃ちを覚悟で、俺から友人を解放しようというのか。
他人のために、どうしてそこまで。

――指を止めたのは、俺だったのか、それとも元の持ち主の最後の抵抗だったのか。

胸に受けた衝撃に、また自分は器を失ってしまうのだと思った。
不思議と、負けたことを悔しいとは感じなかった。
ただ、残念だった。
もう少しで、この混乱した思いがなんなのか、分かるような気がしたのに。
「エレオス……!」
その目も声も、自分に向けられたものじゃない。
分かっているが、それでも少しだけ嬉しかった。
こんな風に、俺を見てくれる者はいなかったから。

俺はきっと、間違えたのだ。
最初に、この身体に入ってしまったことも。
あいつらに言われるまま、行動してしまったことも。

もし違う出会い方をしていたら、いつか、俺自身に向けられた、あの笑顔を見ることができたのだろうか。
もう一度、やり直すことができるのなら……。

ベネスの繭で漂っていた時のように、意識が、辺りに満ちるソーマの中に溶けた。


                                           END





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