「変若水(おちみず)」


「あれ?」
おかしいと思ったのは、水の深さが急に深くなったような気がした時だった。
岩場に流れる清水と、雪解けの湧き水で出来た泉。
少し冷たかったが、禊を兼ねた水浴びには丁度よかった。
薬草を取りに来た、仙界と人界の狭間の地域。
澄んだ水はとても気持ちが良かったけれど。
……嫌な予感がして、あわてて岸に上がろうとする。
しかし、急いだせいで足が滑った。
元が草原の民の出身である。あまり泳ぎは得意でない。
頭まで泉に潜ってしまい、たくさん水を飲んでしまった。
必死に岸に這い上がり、息を整え……改めて、おや、と思った。
自分の手はこんなに小さかっただろうか?
恐る恐る、泉の水を覗き込み……太公望は蒼白になった。
揺れる水面に映ったのは、漆黒の髪、深い紫の目の七、八歳の子供だった。
ひらひらと手を振ってみるまでもなく、これは自分だ。
まず頭をよぎったのは、服をどうしようかとか、これから軍の指揮をどうしたらいいかとか……ではなく。
(また天化に怒られる)
……だった。

*

「おい、太公望」
聞き慣れた声が響いた時、思わず木陰に隠れてしまった。
「変だな……どこ行っちまったんだ?」
残された気をたどってきたのだろう、的確に泉の前で立ち止まる天化。
「ここで途切れてる、か。土遁で先に帰った……ってことはねぇよな、あいつに限って。――まさか、溺れてんじゃないだろうな」
泉は大人で十分足が届く程度の深さだ。いれば、すぐに目に入る。
ため息をつき、ふと岩場に目をやる。
流れ落ちる清水。
差し伸べた手の平に溜まった水を口に運ぶのを見て、あわてふためく太公望。
どうしよう、どうしよう、と悩んだあげく、とうとう叫んだ。
「その水、飲んじゃダメーーっ」
甲高い声に驚いて振り返った手から、水がこぼれた。
ほっとしたものの、その視線がこちらを向いたのでまた叫ぶ。
「こ、こっち来ないでっ」
傍らの畳んだままの服を見られれば、一発でバレる。
ついこの間、変なものを食うな飲むなと怒られまくったばかりだ。
いずれバレると分かってはいても、今怒鳴られるのはちょっと怖かった。
「水行に来た仙童か? どうしたんだ」
意外と優しい問いかけ。
「あの……水浴びしてたら、風で服を飛ばされちゃって……」
言い訳が苦しい。
バレる。覗かれたら、絶対バレる。
身を縮めて覚悟していたが、予想外に天化は近づこうとせず、代わりに上着を投げてきた。
「羽織っておけ。風邪ひくぞ」
どうしようかと思ったが、もたもたしているときっと怪しまれる。
大きな服を、まきつけるように被って、恐る恐る茂みから顔を出してみる。
天化は、子犬でも相手にしているかのように、片膝をついて声をかけてきた。
「お前、名前は?」
少し迷って、今となっては懐かしい本名を答える。多分、仲間たちは誰も知らない名前。
「尚」
「高く、なお上を目指す、か。いい名前だな」
そんな風に言われたのは初めてだった。どうしてこんなセリフが、さらりと出てくるのだろう。きっとこの男、今までたくさん女性を泣かせてるに違いない。……なんとなくむっとする。
「陣に戻れば、服くらい貸してやる。後で洞府まで送ってやるよ、こっち来な」
向けられた笑顔は、いつもとは全然違った。
こんな風に言われて、差し出された手を取らない者がいるだろうか。
(天化って、子供には優しいんだよね)
いつもこうならいいのに。
ひょい、と抱えあげられて、複雑な心境。
「そういや、太公望は……」
ふと思い出して振り返りかけ……
「まぁ、ガキじゃねぇんだ、大丈夫だろ」
あっさりと泉から背を向けたので、太公望はちょっとだけ見捨てられたような気がした。

***

夕陽が地平線にかかり、大地を赤く染め始めている。
太公望は、陣のはずれの高台にいた。
書庫に忍び込んで文献を調べ、元に戻る方法は分かっていた。
あの滝と別の場所に、呪力を打ち消す泉がある。そちらの水を飲めば、元に戻れるはずだ。
しかし、太公望は何も言わないまま、仲間たちの様子を眺めていた。
不思議な気分だ。
いつも、自分を中心に周りが動いていた。今は、壁を隔てた向こう側のようだ。
皆は天化が連れてきた少年を、仙界の洞府から迷い出した童子だと思っている。来た時こそ珍しげに取り囲まれたが、元々珍しい者には慣れている西岐軍の面々。適度な無関心さが嬉しい。
しかし、そろそろ皆が『太公望』を心配し始めている。
今まで、何も言わずに陣を開けたことなどなかったから、当然ではあった。
夜の軍議までに戻らないと、明日の戦いにも差し障るだろう。
ここで必要とされているのは、大将たる『太公望』。
このまま自分が戻らなかったら……?
皆は探すだろう。『太公望』を。
対妖魔軍の総大将。天命を受けて商へ反旗を翻した西岐軍の軍師。
いつのまにか、自分はそんな立場に祭り上げられてしまったけれど。
戻らなければ、代わりに誰かが先頭に立ち、直に自分は忘れられてしまうに違いない。
何の力もない、ただの『自分』など、誰か探してくれるだろうか。
「尚」
ぽん、と頭に触れた大きな手。
「どうした?」
天化だった。
天祥に自分を預けた後、一体どこに行っていたのやら。
すぐに戻ると言うから、天祥や雷震子の誘いも断って待っていたのに。
「哥(お兄さん)も、探してた?」
『太公望』を。
「いや」
きっぱりと言われると、腹が立つ。
「心配じゃないの」
「別に。あいつはアレで結構強いし。どこかで羽を伸ばしているんなら、しばらく放っておいた方がいいんじゃないか。……戻る気があるのなら、そのうち戻ってくるさ。まぁ、どこかで大熊猫にでも襲われてるかもしれないから、後で探してやるか」
そのまま、傍らに寝転がってしまう。
……信頼されているのだか、見捨てられているのだか。それにしても大熊猫(パンダ)とは馬鹿にしてる。
「それで、お前はどうするんだ?」
天化の言葉は、仙界に戻るか、という意味。
多分、自分は洞府から逃げ出してきた童子だと思われている。
仙界の辛い修行に戻るか、それともここに留まるかと。
「戻るか?」
それは、今の太公望にとっては、元の自分に……戦いの渦中に戻るかということ。
それとも、このまま、誰も知る者のいない『尚』のままで……。
「ここにいてもいいんだぜ」
読み取ったように言われて、絶句する。
どうしてこの人は、相手が望んでいることを言ってしまうのだろう。こんなにも、自然に。
迷っている時に、その言葉はあまりに甘い誘惑だった。

  『僕』ハ必要トサレテイマスカ?

軍の大将としてではなく、一人の人間として。
誰か一人でも、『自分』を見てくれている人はいるだろうか。
「あの……探している人が戻ってこなかったら、どうするの?」
「もっと探してみるだろうな」
「それでも見つからなかったら?」
「見つかるまで探すさ」
「どうして? 大将だから?」
「……俺はあいつのことを、大将だとは思ってない」
「えっ」
まだ自分は認めてもらえていなかったのだろうか。
これはこれで、結構ショックだ。
しかし、天化は続けた。
「大将なんてのは、いくらでもすげかえが利くもんだ。――だけど、あいつに代わりはいない。だから探す。見つかるまでな」
「……それから?」
「そうだな。心配かけた分、とりあえず一発ぶん殴って……終わりかな。戻ってくれば、それでいい」
言い方はそっけないけれど。
その言葉は、今の自分に対してのものですらなかったけれど。
『自分』を待っていてくれる人がいるのは、こんなにも嬉しい。
こぼれそうになった涙をこっそりぬぐって、『尚』は顔を上げた。
――もう、迷わない。
「僕、戻ります。送ってもらえます?」
そう言った少年を、天化はしばらく何か言いたげに見つめていたが、結局黙って手を差し伸べた。

****

仙界と人界の狭間。静かな森の中。
頭上には柔らかい光を投げかける半分の月。
「ここからは、一人で行けます。あの……」
『尚』は振りかえり、小さく尋ねた。
「僕のこと覚えててくれます?」
大将でもなんでもない、ただの少年がいたことを。
「忘れねぇよ。……本当に戻るんだな?」
うなずくと、そっと両頬を大きな手が包み込んだ。
「無理することはない、もっと気楽にやれ」
優しい声が心地よい。目を閉じて、『自分』を見てくれる人の言葉に聞き入る。
こんな風に話しかけてくれることは、もう二度とないだろうから。
「辛かったら、辛いと言えばいい。一人で何もかも抱え込むな。――皆が『お前』のことを見てる。それくらい、分かってると思ってたんだがな」
「……えっ!?」
ようやく、それが『尚』に対する言葉ではないことに気づく。
尋ね返す暇もなく、
「よーし、それじゃ、覚悟決めて行って来い!」
突然、ひょいと抱えあげられ、投げ込まれたのは例の泉。
半分おぼれそうになり、ようやく水面に顔を出す。
「いきなり、何をす……っ!」
叫びかけて、声が戻っていることに気づく。水底に足もついている。
しばらく考えた後。
岸に手をかけて、睨むように見上げる。
「……天化。いつから気づいてた?」
冷たい水の中なのに、さっきまで触れられていた頬が熱い。
「さぁ?」
ニヤニヤしているのに、思いきり水を浴びせてやる。
「こっちの水は解呪だけだから、何も効果はないぜ。……服はそこに置いておいたからな。さっさと戻って来いよ、『尚』」
ひらひらと手を振って立ち去って行く後姿を、太公望はうらめしげに見送るしかなかった。

END


この後、変若水を持って、太公望が天化を追い掛け回していたとか(笑)。

課題は「何かが原因で3〜7歳ぐらいになってしまった太公望と、戸惑う天化のほのぼのラブ」。
だったんですけど。
天化が、なんかもう少々のことじゃ驚かなくなってきちゃってて(^^;
(太公望が変なモノ食べて、女の子になったり、記憶なくしたりした後なもんで)
戸惑ってないしほのぼのもしてないっ。ごめんなさーい。
いっそ太公望が記憶も7歳まで戻ってれば、よかったかも。
話の都合でざっくりと削った、「天化サイド」の部分も書きたかったです。(ちょっと格好いい場面があったのです)


豆知識:
若返りといえば、「養老の滝(菊水)」か「月の変若水」……「奄美大島の若水と死水」ってのもありますけど、これはひねりすぎ。
養老ってのもなんですので、「変若水」にしました。
月山神社の祭神、月読命(つくよみのみこと)が持っている若返りの水のことです。
上代の日本において、月には若返りの水があるという伝承があったようです。
月の満ち欠けを、生まれ変わりと見るのは、全世界でのモチーフみたいですね。
実を言うと、若返りの水の伝説は山ほどありますが、逆が見当たりません。
見る見る年をとるというのは、異世界に行った人が戻ってきた時というパターン。
……「若水」は呪いや毒ってわけでもないですから、一度若返ったら元に戻れないのかも……。
(チビ太公望のまま成長を待つ? 目指せ、光源氏計画(笑))


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