「変若水 弐」


仙界と人界の狭間での薬草取りは、戦闘の合間をぬった小休止も兼ねている。
特に太公望にとっては、喧しい追っ手から解放される貴重な休暇だ。
水音を聞きつけるなり、嬉々として走って行ってしまった。
まぁ、たまには息抜きもいいだろう。
それから、小一時間。
薬草集めは一段落ついたのに。
……太公望が戻ってこない。
待ちくたびれた雷震子と那咤を先に帰し、木の『気』を探ってみる。
辿ってみると、あいつの好みそうな泉に出た。
「ここで途切れてる、か。土遁で先に帰った……ってことはねぇよな、あいつに限って。――まさか、溺れてんじゃないだろうな」
泉は大人で十分足が届く程度の深さだ。いれば、すぐに目に入る。
やれやれ、かくれんぼという歳でもあるまいに。一体どこに行ったのだか。
ため息をつき、ふと岩場に目をやる。
流れ落ちる清水。
何の気なしに、一口飲もうとした時。
「その水、飲んじゃダメーーっ」
突然の甲高い声。
こんなところに子供?
咄嗟に、莫邪に手をかける。
「こ、こっち来ないでっ」
そちらに眼を向けると、慌てふためいた声がまた叫んだ。
……本当にただの子供のようだ。怖がらせてしまったか。
剣から手を離し、できるだけ脅かさないように話し掛けてみる。
「水行に来た仙童か? どうしたんだ」
しばらくして、茂みの向こうから、ためらいがちな返答があった。
「あの……水浴びしてたら、風で服を飛ばされちゃって……」
気候は穏やかとはいえ、風はかなり冷たい。
服を探そうにも、その格好じゃ動けまい。
少し考えて、上着を投げてやる。ないよりマシだろう。
「羽織っておけ。風邪ひくぞ」
しばしの沈黙の後、ごそごそと気配がして、小さな顔が茂みからひょこっと覗いた。
……七、八歳というところか。
服を頭から被って、それでもなお余った布に苦労している。
布から覗く髪は珍しいほどの漆黒。紫を帯びた大きな瞳。
――えらく、誰かに似てるが。
こんなところに一人でいるということは……洞府から逃げ出してきたのだろうか。
怯えた子犬のような目を前にしては、問い詰める気にもならなかった。
片膝をついて声をかけてみる。
「お前、名前は?」
少し迷う気配があった。
「尚」
「高く、なお上を目指す、か。いい名前だな」
びっくりしたように目を見開いたあと、からかわれたとでも思ったか、少年は少しふくれつらになった。
「陣に戻れば、服くらい貸してやる。後で洞府まで送ってやるよ、こっち来な」
しばらく迷った後、少年は恐る恐るといった雰囲気で進み出てきた。
幼い子供特有の、手足の細さ。
抱え上げた身体は、見た目よりも更に軽かった。
「そういや、太公望は……」
ふと思い出して、振り返る。
「まぁ、ガキじゃねぇんだ、大丈夫だろ」
ああ見えて、それなりに腕は立つし。
泉に背を向けると、何故か腕の中で、少年がため息をついた。

*

本陣の世話好きな連中に少年を預けた後、天化は、太公望がいなくなった泉にもう一度来ていた。
何も言わずに先に帰るような奴ではない。案の定、陣にはまだ戻っていなかった。
仙界でこっそり逢引でもしているのなら、ヤボを言うつもりはないが……あの大ボケのこと、また何かやっかい事に巻き込まれている可能性の方が高い。
それに、まるで代わりのように現われた、あの仙童。
あいつに良く似た髪と目をした……。
そうえいば、何故あの時、水を飲むのを止めたのだろう?
ふいに背後で気配が動いた。
襲い掛かってきた虎のような獣を、軽くかわして、鞘のままの莫邪宝剣で叩き落とす。
虎もどきは、ぎゃん、と鳴いて逃げようとしたが、足を滑らせて泉に転げ込んだ。
泳げないのか、必死でもがいている。
見守るうちにその姿がみるみる縮み始めた。
すっかり仔猫のようになってしまった虎もどきを、剣で拾い上げる。
地面に置いてやると、(今は)猫もどきはミャウミャウ鳴きながら逃げていった。同じだけの霊力を溜めるには、数百年かかるだろう。
消えた太公望。代わりに現われた少年。
「変若水――なるほど、そういうことか」
まさか、あれが本人だったとは。
妙に決まり悪そうな顔をしていたわけだ。
きっと怒鳴られると思って、言い出し損ねたに違いない。
案の定、先ほどいた辺りを探してみると、きちんと畳まれた太公望の服があった。
さて、原因と結果は分かったものの。
「どうしたもんかな」
夜になれば、大将が戻らないことで一騒ぎ起こるに決まっている。
(早く元に戻さないと)
そう考えて、ふと迷う。戻ることを、あいつは望んでいるのだろうか。
対妖魔軍の総大将などに祭り上げられてはいるが、元々は争いを好まぬ性格。戦闘を重ねるたびに、その魂は傷だらけになっていく。
今のままでいれば、少なくとも仲間を前線に送り出すと言う辛い立場からは逃れられる。多少の混乱はあっても、親父や蘇護という大将クラスの人間がいるのだ。西岐軍が簡単に崩れることはあるまい。
あいつが望むのなら、このまま何も言わずに……。
考えていると、再び背後で気配が動いた。
先ほどと同じ虎もどき。……これは、さっきと同じ奴だ。一体どうやって、元に戻った?
せっかく元の姿に戻ったのに、学習能力はないらしい。まったく同じ状況で、また泉に放りこむ。
もがいているのを拾い上げ、どうするのか眺めてみる。
猫もどきは、うらめしげに天化を睨んだ後、先ほどと同じ方向へ走り出した。……何かあるに違いない。
戻す方法だけ確認して、あとは本人に任せよう。
そう考えて、天化はちょろちょろと走っていく猫もどきの後を追った。

**

陣に戻るなり、嬋玉に捕まった。
太公望がまだ戻らないという。黙ってこんなに長く陣を空けたことなどないのに、と。
ということは、まだあいつは誰にも本当のことを言っていないのだ。
探しておくと約束してその場を離れる。つっこまれると面倒だ。
――『尚』は、陣のはずれの高台にいた。
声をかけると、今にも泣きそうな顔が振り返った。
「どうした?」
戻り方が分からず、困っているのか。それとも――。
「哥(お兄さん)も、探してた?」
『太公望』を。
「いや」
すかさず否定すると、わずかにむっとした気配。
「心配じゃないの」
「別に。あいつはアレで結構強いし。どこかで羽を伸ばしているんなら、しばらく放っておいてもいいんじゃないか。……戻る気があるのなら、そのうち戻ってくるさ。まぁ、どこかで大熊猫にでも襲われてるかもしれないから、後で探してやるか」
わざとそっけなく言って、そのまま傍らに寝転がってみる。
「それで、お前はどうするんだ? 戻るか?」
太公望は、まだバレていないと思っている。仙界へ戻るかどうか尋ねているだけだと考えているだろう。
『戻る』というのは、今の太公望にとっては、元の自分に……戦いの渦中に戻るかということ。
それとも、このまま、誰も知る者もいない『尚』のままで……。
「ここにいてもいいんだぜ」
思わず口をついて出た言葉に、驚いたように『尚』が振り返る。
浮かんでいるのは、怯えと、わずかな喜びの色。
このままでいるというのは、今の重責から逃れられるという甘い誘惑。
「あの……探している人が戻ってこなかったら、どうするの?」
急に違うことを尋ねられて、少し返答に戸惑う。
本人がここにいるということを念頭から外して……もしあいつがいなくなったらどうするか?
「探すだろうな」
「それでも見つからなかったら?」
「見つかるまで探すさ」
「どうして? 大将だから?」
「……俺はあいつのことを、大将だとは思ってない」
「えっ」
『尚』の肩がびくん、と跳ね上がった。その後、必死に平静を装っている。
悪いが本当のことだ。未だにこいつが、大将だとはとても思えない。
手がかかる上に、頼りない。
もっと堂々としていればいいのに、いちいち自信を失って迷う。
本当なら、軍の筆頭などとても勤まらない性格のくせに。
――それを補っているのが、『太公望』という個人であるということに気づかないのが一番まどろっこしい。
「大将なんてのは、いくらでもすげかえが利くもんだ。――だけど、あいつに代わりはいない。だから探す。見つかるまでな」
「……見つかったら?」
「そうだな。心配かけた分、とりあえず一発ぶん殴って……終わりかな。戻ってくれば、それでいい」
もしこのままでいるのなら、別にそれでも構わない。
必要としているのは『大将』じゃない。傍らで、いつものように天然ボケをかましていれば、それでいい。
それくらい気づいてもよさそうなものなのに。
うつむいて何か考え込んでいた『尚』は、しばらくしてようやく顔を上げた。
「僕、戻ります。送ってもらえます?」
そう言った少年に、天化は何か言おうと思ったが、ふさわしい言葉が見つからず、結局黙って手を差し伸べた。

***

仙界と人界の狭間。静かな森の中。頭上には柔らかい光を投げかける半分の月。
あの虎もどきが来た泉のある場所だった。太公望は、元に戻る方法を自ら調べていたらしい。
「ここからは、一人で行けます。あの……」
『尚』は振りかえり、小さく尋ねた。
「僕のこと覚えててくれます?」
大将でもなんでもない、ただの少年のことを。
「忘れねぇよ。……本当に戻るんだな?」
うなずく両頬にそっと触れる。
(まだ迷ってるくせに)
誰にも負けない強い輝きを持ちながら、こんなにも不安に揺れる魂は確かにあいつだ。
「無理することはない、もっと気楽にやれ」
こんな風に話すことは、もう二度とないだろう。今言っておかないと。
「辛かったら、辛いと言えばいい。一人で何もかも抱え込むな。――皆が『お前』のことを見てる。それくらい、分かってると思ってたんだがな」
「……えっ!?」
「よーし、それじゃ、覚悟決めて行って来い!」
下手に問い返されると照れくさい。
尋ね返す暇も与えず、ひょいと抱え上げて例の泉に投げ込む。
その姿が半ばおぼれるように沈み、少々やりすぎたかと心配になりかけた頃、ようやく水面に浮かんだのは、太公望だった。
「いきなり、何をす……っ!」
元に戻った自分の声に驚いて、しばしの沈黙。
やがて、岸に手をかけて、睨むように見上げてくる。
「……天化。いつから気づいてた?」
「さぁ?」
ニヤニヤしていると、思いきり水を浴びせられた。
「こっちの水は解呪だけだから、何も効果はないぜ。……服はそこに置いておいたからな。さっさと戻って来いよ、『尚』」
迷ってないで、早く戻って来い。必要なのは、『大将』ではなくて『お前』なのだから。
投げかけられるうらめしげな視線に笑いながら、天化はその場を後にした。

END


「変若水」の天化視線です。
いつ天化は、『尚』を太公望本人だと気づいたのか、の回答を兼ねてみました。
結構早いうちに分かっていたのに、何も言わない辺り、優しいんだか、意地悪なんだか(笑)。
うちの天化は基本的にお兄さんですから、小さい子には甘いです。
『尚』のままだったら、可愛がってもらえたでしょうに、もったいない(^^;

途中で出てきたお間抜けな虎もどきさんは、山海経に出てくる馬腹(ばふく)のイメージ。
馬腹は人面に虎の身体、その声は嬰児。人食いとされています。
山海経には、こーゆーのがたくさん登場していて面白いです、はい。

うーん、両方の視線で別に書くのって、一つのプロットで二本書けるわけだから、とってもお得かも(笑)。


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