「胡蝶」


その日、西岐軍の陣営は妙に静かだった。
いつも賑やかに飛び回っている羽つきの少年が、寝込んでしまったのだった。
「らいちゃん、もうだめかも……」
「何を言ってるんだ、ただの風邪だよ」
普段元気いっぱいなだけに、雷震子は体調を崩してすっかり気弱になっている。
「何か、食べたいものある?」
「いらない……」
いつもなら、山ほどおやつをねだるのに。
熱で食欲を失ってしまっている。……重症だ。
うるんだ目のまま、呟く。
「ちょうちょ、みたいなぁ……」
それで元気が出るのなら、見せてやりたいものだが、外はもう肌寒い。
この季節に蝶は無理だろう。
「とにかくゆっくり休んでおいで。すぐに元気になるさ」
「うん……」
薬を飲ませ、寝かしつけてから天幕を出た太公望は、その傍らに韋護が座って何かしているのに気づいた。
覗き込んで、目を丸くする。
「見事なものですね」
なんの変哲もないただの布に縫い上げられた、一匹の蝶。
今にも動き出しそうなほど、緻密で艶やかだった。
本物の代わりに、雷震子に見せてやろうと思ったのだろう。
しかし韋護は、ふう、とため息をついた。
「糸が足りない……」
もっとたくさん縫うつもりだったのに、糸を切らせてしまったらしい。
普通に使う白い糸ならともかく、こんな鮮やかに染め上げた糸を誰かが持っているとは考え難い。
今は妖魔との戦いに一般の人々を巻き込むのを避け、陣営は街道から離れて張っている。一人、陣を離れるのもまずいだろう。
しばらく考えて、太公望が腰につけていた飾り紐を取る。
「これ、使えませんか?」
道士の正装の一つだった。
でも、と言いたげな韋護に、にこりと笑う。
「そんなものつけてなくても、僕が道士であることには変わりありませんから」
形式にやかましい上級仙人の前に立つ時にはイヤミくらい言われそうだが、戦いの最中では、必要のないものだ。
束ねた糸で作った細工物だったのが幸いした。
ばらすだけで何色もの糸に分かれる。
器用により分けて、韋護は針を手にした。
表情はいつもとほとんど変わらないが……結構楽しそうだ。
小春日和の穏やかな陽射し、柔らかな風。
思わず、うとうととまどろんでしまう。
早く、雷震子もよくなるといいのに。
「出来た」
その声にはっと目を開けると、韋護が布を風に流した。
刺繍された、見事な蝶の群れ。
一緒に施された花々も、匂い立つような鮮やかさだった。
「これなら、らいちゃんも喜びますね」
「うん」
病気の時は、体力ももちろんだが、何より本人の気力。本人が強気になれば、治り具合も格段に違ってくる。
そして何よりも、彼ら自身が雷震子の無邪気な笑顔を見たかった。

*

「らいちゃん、起きてる?」
太公望が声をかけると、布団がもこもこと動き、不機嫌そうな顔がこちらを向いた。
それでも、人が来たので嬉しそうだ。
まだ幼い雷震子は、寂しがり屋だ。一人になることを嫌う。
「これを、韋護さんが」
雷震子の前で布をひらめかせると、歓声が上がった。
たちまち笑顔になった。
「うわー、きれい、きれい!」
熱のことも忘れて、飛び起きようとする。
さすがに熱でぐるぐるしたのか、また、ぱたりと寝てしまったが。
「らいちゃん、見ててごらん」
幻惑術の応用。病で弱っている者を夢に誘うことなど造作もない。
色鮮やかな蝶が、布から無数に舞い上がった。
風にひらりと花びらが舞う。
柔らかな花の香りが漂った。
「すごいっ、すごいのだーっ」
……しばらく、術の余韻で雷震子は花畑の中にいることだろう。
布を布団の上にかけて、太公望はその頭を撫でる。
「さ、らいちゃん、今日はおやすみ。次に目が覚めたら、もう元気になってるよ」
「うん、おにいちゃんたち、ありがと」
「おやすみ」
韋護にも頭を撫でられて、雷震子は嬉しそうに笑う。
「おやすみなさいなのだ――」
最後の呟きは、眠りの中に消えていた。

二人が天幕を出る時に、むにゃ、と雷震子が呟いた。
「もう、たべられないのだ……」
その一言が、太公望を撃沈した。

END


韋護さんと言えば、裁縫!
太公望の道士服、繕ってくれちゃうんですもんね、器用そうです。(注:愛蔵版つぶやき)

対して、らいちゃんと言えば、イモムシ。(これも愛蔵版つぶやき)
蝶でも、やっぱり食うのか、雷震子。
想像図は、怖いからトリの姿でよろしく。

最近、オチつけないと気がすまない私。


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