伽羅 弐


昔はあの香りが好きだった。
落ちついた木の匂い。
深い森の中にいるような。
「沈香」というのだと、教えてくれた者がいる。
自分もとてもそれが好きだった。

あの時までは。

*

部屋から漂ってきた香りに、太公望は立ちすくんだ。
手にしていた地図や木簡が音を立てて落ちる。
振りかえったのは、嬋玉と公主。
「――太公望さん?」
嬉しそうな顔が、たちまち驚きに染まる。
「どうしたの?」
尋ねられても、動けなかった。
声が出ない。
息が出来ない。
蝉玉たちの向こうの机からは、一筋の煙が立ち昇っている。
ぱちん、と弾けるような音がして、立ちこめる香りがさらに強くなった。
「あ……っ」
それが限界だった。
耐えきれずに、その場から逃げ出す。
呼びかける声も、もう聞こえなかった。
通路を曲がる時に誰かにぶつかりかけた。
「……っと危ねぇな!」
怒鳴ろうとしたのは天化だった。
だが、太公望のただならぬ様子に言葉を途切れさせる。
「一体どうし……」
突き飛ばすようにして、その傍らをすり抜ける。
誰とも話したくない。
一刻も早く、あの死の匂いから逃れたかった。

*

風になびく草の海。
どこまでも果てしない緑の大地。
何もないけれど、そこにはすべてがあった。
それが、少年の邑(くに)だった。
歳を経るにつれて、自分が回りの者たちと違った扱いをされていると気づいたが、それは別に辛くはなかった。
(……外、出たいと思わないのか?)
尋ねられた時、一瞬迷ったけれど。
自分の役目を果たせば、皆が幸福そうにしている。
それで十分だった。

季節は巡り、静かに時は流れる。
だがその年、普段と違う時期に禊に行くよう、長に言われた。
不思議に思ったが言いつけ通りにいつもの祠にこもり、規定の日数を過ごした。
そして、迎えを待つ。
……しかし、来るはずの迎えは、来なかった。
神に通じる身で、勝手に出歩いてはいけないと言われていたけれど。
二日が過ぎ、邑に戻る決心をした。
そして――
見慣れた草原と邑があるはずのところに、地獄絵図のような焦土を見たのだった。
まだあちこちで燃えている炎。
燃え落ちた天幕。
立ちこめているのは、沈香の匂いだった。
どこかで、あの香木が燃えている。
むせかえる芳香。
それに混じっているのは、脂の焼ける胸の悪くなるような匂い。
――人の焼ける匂いだ。
それらの匂いが一面に吹き溜まり……息が出来ない。
倒れている人たちの中には、知っている顔もある。
けれど、悪い夢を見ているようで、不思議と、悲しいとか辛いという気持ちは湧いてこなかった。
頭がぼんやりとして、何も考えられない。

一体どれだけ立ちすくんでいたのか。
やがて焼けた草原にも風が吹き始め、凝っていた重い匂いが薄れた。
ようやく辺りを見まわし、近くに倒れている子供の身体に触れる。
……冷たかった。
この間まで、元気よく羊たちを追っていたのに。
無事に彼らの魂は、天に昇れたのだろうか。
自分が祈り続けてきた神は、彼らを導いてくれたのだろうか。
その苦しげな、辛そうな表情は、とてもそうは思えなかった。
せめて炎で焼いてやりたい。
炎は恨みや怨念を浄化すると聞いたことがある。
そう考えて、人々の身体を、一箇所に集め始める。
その細腕では作業は遅々としてはかどらず、それでも、朝も夜も、雨に降られても、ただ、黙々と運び続けた。
そして、ようやく終わったと思った時、振り返った目に青い炎が映った。
人々の身体から抜け出した魂のような。
不思議な燐光。
綺麗だと思った。
そして、沈香の香り。
それは、死の匂いとして脳裏に深く刻まれた。

これからどうしたらいいのだろう。
一人残された少年は、ぼんやりと考える。
ふと顔を上げると、遥かな地平にかすむ山が見えた。
(お前、仙人の素質があるんだ。崑崙に登れるかもな)
そう言ったのは、この邑の者ではなかった。
遥か彼方の国に住む、初めて話した他の国の人。
崑崙には、仙人が住んでいて、修行を重ねていると。
……自分のような、何も持たないものが行ってもいいのだろうか。
あの山は、彼の国よりさらに遠い。
どこにも行く場所がないのなら、あの遥かな高みまで行けるところまで行ってみよう。
もう自分には何も残っていないのだから。

少年は、幻のような山を目指して歩き始めた。

*

ばさり、と頭から上着を被せられた。
「……いい加減にしておけ。ここまで来て大将が風邪なんぞで倒れたら、情けなくて目も当てられないぜ」
「天化――」
外はもう寒い。
そろそろ雪の季節だ。
飛び出して来た時には、気温など感じなかったのに。
服の暖かさを感じた途端、急に寒さに身が震えた。
天化は、何故自分が逃げ出してきたか、知らないはず。
けれど、何も言わない。
こちらから言わなければ、きっと何も聞かない。
それなのに、どうして口を開いてしまったのか。
「僕の一族は、紂王に逆らって討伐された――」
なんの興味もなさそうな顔をしながら、きっと天化は耳を傾けてくれている。
「後になって、紂王が差し出すように命じたのは、一族が守ってた「伽羅」だったと聞いた。……それを断った為に、滅ぼされたって。僕一人だけが生き残って――」
一族と引き換えてまで守ろうとした「伽羅」。
たかが「香木」に、そんな価値はなかったはずなのに。
「お前が残ったのは偶然だろう。言っておくがな、自分のために邑が滅んだなんて思いあがるなよ」
だから、気にするな。
恐ろしく言葉は悪いが、そう聞こえた。
「その時の代わりに、お前は今、戦っているんだろうが」
紂王によってもたらされる哀しい運命を少しでも変える為に。
あの邑のような人々を、一人でも救う為に。
……天化の服からは、かすかに沈香の匂いがする。
けれど、あの追い詰められるような思いは浮かんでこなかった。
「ありがとう、天化」
「んなことで礼なんか言ってんじゃねぇよ――戻るぞ」
差し出される手はいつだって優しい。
志を共にして、戦ってくれる仲間たちがいる。
自分はもう行き場を失っていた子供ではない。
――これからはきっと大丈夫。

戻った部屋には、柔らかな月李(バラ)の香りが立ちこめていた。

END


「伽羅」の太公望視線です。
まったく場面は違いますが。

紂王が求めた「伽羅」が「神子」であることを、天化は知ってます。
一族が滅びたのは、神子=太公望のせいであるということも分かった上で、
そうじゃない、と言いきるのは、彼なりの優しさということで。
公主たちに、「沈香」の代わりに「月李」の香を焚かせたのも天化です。
いいかげん気づいてあげなさい、「神子」!
こんないい男、他にいないよ!!(笑)


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