紫羅蘭花(あらせいとう)
炳霊公の目の前を、一人の若い男が吹っ飛んでいった。
池から盛大な水しぶきがあがる。
「姜公殿〜」
「だーっ、もう、うっとーしーっ!」
池から半身を出して、未練がましく手を伸ばしている青年に、姜公が叫ぶ。
「僕には天化がいるんだからね! 君とつきあう気は、まったく、ないんだ!」
「別れるのをお待ちいたします〜」
「不吉なことを言うなーーーっ!」
今度は大きな水柱。
ようやく静まった水面に、赤い人面魚が目を回して浮いていた。
炳霊公はぞっとして、絶対に姜公を怒らせるまいと心に誓った。
*
「天化も天化だよ! なんであいつを本気で追い出さないんだ! もしかして、気に入ってるわけ!?」
宮内に入っても、姜公はかんかんに怒っている。
滅多に人を嫌うことのない、のほほんとした性格のはずなのに、今回はそうとう参っているらしい。
「いや、全然」
「じゃあ、なんで!」
あいつがいると、姜公が「自分は炳霊公のモノだ」と言い切ってくれるのが嬉しくて……とは、ちょっと本人には言えない。
「南海竜王の居城をぶっ壊しちまったからな。代わりに、当分あれの面倒見てくれと言われてる」
「……あっちでも相当厄介モノだったんだね……」
さもありなん、と姜公ががっくりと肩を落とす。
南海からの居候は、中途半端な霊力のせいで、長くは陸上にいられない。
だから、宮内に入ってしまえば害はないのだけれど。
「はぁ、やっぱり観音様に頼んで、実体作ってもらった方がいいかな」
魂だけの存在である姜公は、今の姿を自らの霊力で実体化させている。
世界が安定している天界でなら、苦もなく実体を維持できるが、人界との狭間にある神界では、そうもいかない。
必要のない時間は消耗の少ない玉の姿になっていることが多かった。
しかし、篭ってしまうと、外の様子が見えない。
炳霊公が戻れば、声をかけてくれると分かっていても。
できるだけ、自分から出迎えたかった。
それなのに。
あの居候のせいで、落ち着いて待ってもいられない。
余計な力を使わせられるのは、はっきり言って迷惑だった。
……いつになるか分からない神将の帰りを待つ間、退屈せずには済むが。
本当の実体を持てば、今までのように持ち運んでもらうことはできなくなるが、それでも、本当の身体はあった方がいい。
意識を失うと玉に戻ってしまうので、ちょっと困っていることもあるし。
「ね、どう思う?」
炳霊公は、途中から聞いていなかったようだ。
窓からどこか遠くを見て、ぼうっとしている。
「天化?」
「ああ、悪い――」
「何かあったのかい?」
「いや、別に――」
再会して以来……天化はわずかに正面から目を合わせるのを避けている気がする。
何かに遠慮しているかのように。
でも、何に?
「……少し、時間をくれ」
その様子は、観音に私的なことを頼むのをためらっている、というのとも違うようだ。
自分が実体を持つと、何かまずいことでもあるのだろうか。
きっと、自分の知らない間の出来事に関わっているのだ。
そんな辛そうな表情は初めて見た。
それ以上聞かずに、話してくれるのを待つことにした。
*
翌日、蓬莱山の頂きの中でも、もっとも見晴らしのよい場所にある祠に連れて行かれた。
祠のことは知っていたが、それが何のためのものかは聞かされていなかった。
宮にいる半獣や精霊たちに尋ねても、困ったように黙ってしまうのが常だった。
答えは、炳霊公の霊力で厳重に封印された部屋の奥にあった。
「――僕だ」
それは確かに、『太公望』の身体だった。
自分が没した時よりもかなり外見は若いけれど。
「どういうこと?」
「お前は魂は地上に残したが、その時身体は尸解して、輪廻の流れに入ったんだ。身体だけが転生して……一度俺と会ってる」
知らなかった。
神将の皆だって、そんなことは一言も――。
「名前は「尚」。器は確かにお前だったが、昔の記憶もない普通の人間だった。自ら昇山して俺のところに来てくれて……百年くらいはあの宮にいた」
「百年も?」
神界での時の流れは異なるとはいえ、昔の自分と過ごしたよりも遥かに長い年月。
魂魄を失ったまま、転生した器。
そこから新しく生じた魂は、どんな存在だったのだろう。
それほど共に過ごしておきながら、何故、そのまま神籍に入らなかったのか。
ほとんど歳をとっていないことから、それだけの霊力はあったはずなのに。
「俺がまだ、お前の魂を探していることを知られたんだ」
「……!」
「この身体を、お前に使って欲しいと言っていた。自分で薬を飲んで……」
同じ魂を持つとすれば――その者が何を考えたか、容易に想像できた。
求められているのが自分の器だけであると思い、会ったことも無い『自分』に嫉妬したのだ。
今自分が、自分の知らない時間を共に過ごした者を妬んでいるように。
そんな自分に耐えられなくて、自分を殺した。
残された者がどんな思いをするか分かっていたはずなのに。
それでも、そうせずにはいられなかった。
「俺はあいつの気持ちを知っていたのに、ずっと気づかないふりをしていた。認めてしまったら、お前のことを忘れてしまいそうで……」
炳霊公は、かつて交わした約束を破るには誠実過ぎ、自分を慕う者を拒絶するには優しすぎた。
「俺がこいつを殺した――」
「天化、もういい!」
残された身体をまっすぐ見ることもできず、炳霊公はうつむき、歯を食いしばっている。
涙が浮かばないのは、悲しみを浄化したからではない。まだあまりにもその存在は身近すぎて。
「もういいから……すまない、辛い思いをさせて」
実体を持ちたいなどと言わなければ、もう少し傷が癒えるのを待てたかもしれないのに。
姜公は改めて、かつての自分にそっくりなその身体を見下ろした。
こんなに好きな人を苦しめて、なんて残酷な――可哀想な――僕。
そして、その存在がいないことにほっとしている自分がいる。
もしも、今ここに「尚」がいたら、きっと炳霊公は迷う。
迷って、きっと「尚」を選ぶ。
……そうしたら、壊れるのは自分の方だ。
「この身体を使うようにって、そう言ったんだね」
返事を待たずに姜公は、確かに自分のものである身体に入りこんだ。
**
人の作り出した薬などで、完全に魂魄が消えるわけがない。
転生の流れに入ったのでなければ、きっとこの中に残っている。
……案の定、閉ざされた世界の奥に、小さな光が眠っていた。
――誰?
「僕は姜……いや、太公望と言った方が分かるかい?」
――貴方ガ? ヨカッタ、見ツケタンダ。
「出ておいで。君を探しに来たんだ」
――起コサナイデ。僕ハコノママ消エルカラ。
「あの人をあんなに傷つけたまま?」
―― ……。
迷う気配の後、小さな光が瞬いた。
もうかつての姿すら作り出せない、かすかな霊気。
――僕ニハ貴方タチヲ見守ルナンテデキナイ。
「見ている必要はない。君と僕は同じ魂だ。僕の中においで」
――同ジ……?
「同じ身体から生じて、同じ人を愛した。君は、欠けている時を埋めてくれるもう一人の僕だ。これからは一緒にあの人のそばにいよう」
――アノ人ノ……ソバニ。
手を差し伸べて、姜公は小さな光を受けとめた。
光は一瞬ためらうように震えて、輝いた。
そしてなんの抵抗もなく、彼の中に溶け込んだ。
***
「太公望……か?」
ようやく目を開いた待ち人に、炳霊公は恐る恐る声をかける。
その心配そうな口調に、姜公はふわりと微笑む。
「尚は僕の中にいるよ。記憶も想いも、僕と一つになったから。――これからは、僕ごと尚を守って」
かつての太公望と、生まれ変わりの尚と、そして今の自分が愛した人。
これからも、ずっとたった一人だけ。
そして、初めて自分から、炳霊公に口付けた。
****
開かれた窓から、陽射しと共に風が吹き込んできた。
朝露と若草の香り。
「起っきろー!」
「な、なんだ?」
「いい天気だよ。寝てるなんてもったいない」
遠慮のない口調は確かに姜公。
けれど、風に向って手を差し伸べるその姿は。
「――尚?」
にこ、と微笑んで、軽く身を翻して走り出していく。
他の部屋の窓が次々に開かれていく音がする。
……何百年も前と同じように。
失ったと思っていたものすべてが今、ここにある。
もう二度と手放さない。
これからの悠久の時を――君と共に。
END
これからは、ケンカしても、姜公が目をうるっとさせて「炳霊公様?」と言えば一発で陥落です。
ああ、よかった、明るく終われた……(^。^)。
紫羅蘭花はストックのこと。
ご存知、花言葉は永遠の愛。
いつまでも枯れないことからの連想なんですけど、
実際に花を触ると、何故枯れないか分かります。
……最初からドライフラワーになっとるだけや。
(みもふたもない)
源氏物語でタイトル続けようかと思ったのですが、
あと、しっくりくるのがなくて、あきらめました。
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