鏡氷湖
「本当だ。凍りついてる」
「なんかの術だな。すげえ陰の気だ」
鏡のように月の光を照り返す白銀の氷。
もう1000年以上、夏でも解けずにいるという。
龍が守っていると言われる凍りついた湖。
「本来龍は土地の守護者……。本当に龍のしわざだとしたら、一体何故こんなことを」
気の吹き溜まりは土地を狂わせる。
これほどの陰の気の溜まりでは、死人すら目を覚ますだろう。
「あれ、蝶がいる」
先ほどから、ふわふわと白い蝶が飛び回っていた。
月の光、氷の白銀。白い鱗粉を散らす蝶。
これだけの陰の気にとりまかれながら、不思議と穏やかで幻想的な光景だ。
ふいに、天化が呟いた。
「……女だ」
「え?」
湖の中ほど。足元の氷の中に横たわる人の姿があった。
長い黒髪の女性だった。
「綺麗な人だね」
「氷の中ってことは、1000年前の生贄か何かか?」
まるで生きているかのような姿。
「この女の仕業……ってわけじゃないよな。やっぱり龍とやらを探さないとだめか」
面倒くせえ、と愚痴て剣を女性の傍らにつきたてる。
厚い氷は、ひび一つ入らなかったが。
まるで、その行為に激怒したように、対岸の洞窟から龍が現われた。
凍りついた、白銀の鱗。
吐かれる息は霜をまとっていた。
「こいつが元凶だな。――そっちがやる気なら容赦しねぇ。覚悟しやがれ」
「ちょっと天化、いきなり喧嘩ごしに出なくても。何か理由があるのかも……うわっ」
突然、足元の氷だけがひび割れ、太公望を飲み込んだ。
*
辺りを包む深い、水の青。
誰かの記憶が流れ込んできた。
毎日水を汲みに来る少女がいた。
長い黒髪、白い肌の。
魚とたわむれ、よく笑う。
その姿を遠くから眺めていた。
数年もすると、彼女は美しくなった。
もっと近くで見たい、と思うようになった。
でもどうすればいいのか分からない。
きっと姿を見せたら、逃げてしまう……。
――これは龍の記憶だ。1000年前の。
その村とは契約を交わしていた。
求められた時に雨を降らせる代わりに、こちらの望むものを捧げるようにと。
今までは、珍しい果物や宝玉を要求していた。
その年、初めて「人間」を求めた。
輿を運んできた村人たちは、皆泣いていた。
「モノ」を運んでいた時には、そんなことはなかったのに。
不思議だったが、輿から現われた姿にそんな疑問も消えた。
やっと手に入れた。
これからずっと、その姿を見ていられる。
何故、こんな小さな人間などを欲しいと思ったのかもきっと分かる。
だが、近寄ろうとすると、彼女が先に口を開いた。
――何故あなたを怒らせてしまったのか、私には分からない。お願いだから、村には手を出さないで。私には、差し上げられるものが自分の命しかないのです。
そう言って、何かを飲み込んだ。
毒と気づいた時には、彼女はそのまま崩れて、湖の中に沈んでいた。
違う、そんなつもりではなかった。
ただ側にいて欲しかった。近くで見ていたかった。
それだけだったのに。
我知らず、咆哮が口をついた。
その日から湖は凍りつき、解けることを忘れた。
*
水の中にいたのは一瞬だった。
腕を掴まれて氷の上に引き上げられる。
天化が剣を振り上げたのが見えた。呼び出そうとしているのは炎の朱雀。
「だめだ、やめてくれ!」
「何言ってんだ、あれがこの陰の気の元凶だろうが! 龍神のなりそこないだろうが、天地の理を狂わせ続けるだけなら、倒しておいた方が……」
「あの龍をこれ以上苦しめないでくれ! ただ、彼女にそばにいて欲しかっただけなんだ。けれど、彼女は誤解して……」
「……あいつはあの女に惚れてたのに、女の方は自分を生贄と勘違いして自害した……ってか?」
「それからずっと、龍は悲しんでいるだけなんだ。彼女の身体を守って、忘れることすらできずに……」
ただ嘆き続けている。別れがあまりに突然で、何が悲しいのかも分からないまま、言葉さえ忘れて。
それを妖魔と同じように退治してしまうのは、あまりに可哀想過ぎる。
「言いたいことは分かった。――だがな。なおさら今、決着つけてやる」
「何故!?」
「その話が本当なら、あの龍はこれから先もずっとあの氷の人形を前に苦しみ続けるんだぞ。その方がよほど残酷じゃねぇか。一縷の望みもないのなら、いいかげん解放してやれ!」
「あ……」
言い返せない。こんなにも長い時を苦しんでいたのに。生きていて欲しいと思うのは、さらに悲しいだけの時を過ごせということになるのだろうか。
言葉を失った太公望の肩に、ふわりと白い蝶が止まった。
その羽がきらきらと氷の粒を散らす。
人界の蝶ではないことに気づいて、太公望は叫んだ。
「待って!」
対峙する龍と友人の間に飛び込み、止める。
「龍よ、貴方が望んでいたのは、彼女の身体? それとも心?」
龍の動きが止まった。
いぶかしげに、目の前の小さな人間を見つめる。
「気づかなかったんだね。ずっと彼女はそばにいたのに」
白い蝶が、動きを止めた龍の鉤爪に止まる。
小さな息一つでも吹き飛んでしまいそうな小さく儚げな蝶。
それは、確かな意思を持って、龍の元にいた。
――人の魂は、蝶となってこの世に留まる。
「求めているのが心なら……貴方はもう手に入れていたんだ」
飛んでいこうと思えばいつでも離れられたのに。
羽を得ても、彼女はここに留まっていた。
――龍の想いを知って、いつか応えるために。
低い咆哮が、湖を震わせる。
氷が……解ける。
娘の髪が、水の中に広がる。その口から泡が漏れた。
龍の悲しみは、時さえも凍りつかせていた。
1000年の時を経て、初めて氷を解かれた身体は、その当時のまま。
水底に沈みそうになった身体を天化が引き上げ、すかさず太公望は解毒の術をかける。
ふわふわと漂っていた蝶がその身体にすい、と溶け込むと、その頬に朱が戻った。
開かれた瞳は、まっすぐに龍に向けられていた。
*
「もう湖が凍ることもないよね」
「多分な」
龍の強い気を浴び続けていた娘は、もう人間の気配ではなかった。どちらかというと仙界の精霊のような存在になってしまったのだろう。
これから龍と共に長い時を静かに過ごしていくに違いない。
「好きな人の、精神(こころ)と身体、どちらか選べって言われたら……天化ならどうする?」
「さぁ。実際そういう状況になってみなきゃ分からねぇ。……でもな」
ニヤリと不敵な笑い。
「俺は欲張りだから、どっちも手に入れてみせる。――あの竜だって結局手に入れたんだ。負けてたまるか」
一体何を対抗意識を燃やしているのだか。でも、彼らしい。きっと天化なら本当にそうするだろう。
くす、と笑った太公望に、天化は調子に乗って続ける。
「身体だけじゃ人形みたいなもんだろ? そんなの触ったって面白くねぇし。かと言って、精神(こころ)だけじゃイイことなんにもできないだろが」
考えていたのと随分違う、あまりに俗的なセリフに太公望が固まる。
な、そうだろ? と振り返ったところに、打神鞭が炸裂した。
END
……完全オリジナルの話にすると、「西遊記」につながるみたいです。
シリアスでは終われないし(笑)
TOP/小説/
西遊記編