「篝火花(かがりびばな)」
(……敵!?)
ふいに感じた、ぞくりとする悪意のようなもの。
炳霊公の宮の中で、まさか。
あわてて振り返るが、そこにいたのは、見覚えのある人間一人だけだった。
「あ、れ? 姜公様……」
「やあ、星辰。何か手伝おうか?」
「ありがとうございます。大丈夫ですよ。あの――お一人ですか?」
「うん、そうだけど。どうかした?」
「いえ、なんでもないです」
逃げるようにその場を後にした星辰の後ろで、姜公はきょとんとしている。
やっぱり気のせいだ。どうかしてる……。
ほっとして、角を曲がろうとした時。
再び、あの冷たい感覚にぞくっとした。
振り返ると、姜公がこちらを見ている。
いつもの笑顔を浮かべる一瞬前。
確かに、その目には、敵を見るような冷たい光が宿っていた。
*
炳霊公の側近の中でも、彼が人間だった時から縁がある者は、さすがに少ない。
猫娘のマオルはその一人。
育てられたも同然とあって、親のように炳霊公を慕いよっている。
妙なライバル意識を持っていて、めったに近寄ってこないマオルが、その日は星辰のいる書庫にいりびたっていた。
いいかげん理由を聞こうとした時、先にマオルが口を開いた。
「あたし、今の太公望のこと嫌い」
「マオル? 何をいきなり……」
マオルはもちろん太公望――姜公のことも知っている。
人間界に彼だけ取り残されたいきさつも、炳霊公が探しつづけていたということも。
「だって、あっちがあたしたちのこと妬んでだもん、仕方ないじゃない!」
「妬むだなんて、どうしてそんな……理由がないじゃないか」
ふと、星辰は先ほどの姜公のことを思い出す。
マオルもあの視線に気づいたのだろうか。
「あるわよ。太公望がいない間、あたしたちは1800年も、天化さまといたのよ?」
星辰は絶句する。
あまりにも簡単で、納得できる理由。
けれど、それは仕方の無いこと。それは姜公もよく分かっているはず。
「尚は、ずーっと素直で可愛かったわ!」
「マオル!」
一喝されて、マオルが耳を伏せる。
「お二人の前で、そんなこと言ったらいけないよ」
「……分かってるわよ、それくらい」
「尚様の時は、そんなこと言わなかったのに」
「だって、あの子は分かってたもの。いつでも、あたしたちのこと、うらやましいって言ってたわ。自分の知らないことをたくさん知ってるって」
記憶に蘇るのは、屈託のない笑顔。
真っ白な無邪気さを、誰もが愛した。
ずっと笑顔であることを、誰もが願っていた。
それなのに。
その別れは突然で、あまりにも悲しかった。
「今の太公望がイヤなのはね、自分でそれに気づいてないってこと。無意識であたしたちに嫉妬してるから、余計にヤな感じなのよ!」
たった一人のために生きてきた妖猫は、いつでも素直で、まっすぐで、正直だ。
それでも、炳霊公の思いを知っているから、何も言えない。
「あたしに言わせれば、1800年も一緒にいるのはあたしたちの方なのよ! それなのに、ひょっこり戻ってきた奴の方が好かれてるなんてひどいじゃない! あたしだって、天化さまのこと好きなのは負けてないんだからぁっ!」
「マオル、君はいい子だね。僕は大好きだよ」
「あ、あたしは星辰なんか大ッ嫌いよ!」
「はいはい」
泣きじゃくる猫娘をなだめながら、星辰は彼女の言葉の半分くらいは、自分も心のうちでくすぶっていることを感じていた。
*
「え……尚様!?」
若草の匂い立つ午後。
炳霊公に伴われて戻ってきた姿に驚かされた。
それは700年前に、自ら命を絶ったはずの。
しかし、その内にある気配は、よく知っているもう一人のものだった。
星辰が飲み込んだ言葉を、マオルが叩きつけた。
「太公望、あんた、尚の身体を取っちゃったの!? 信じられない、天化さまだけじゃ足りないっていうの? 冗談じゃないわ、尚の身体は尚だけのものよ、出てって! 今すぐ、出て行きなさいよ!!」
マオルの剣幕に、悲しそうに姜公が答える。
「尚は僕の中にいるよ。尚の記憶は僕と一つになったから」
「記憶があったって同じよ! 尚はあんたとは全然違う!」
「マオル!」
炳霊公に叱咤されて、マオルがびくりと身を縮め、目を閉じる。
叩かれることを覚悟しながらも、叫び続ける。
「天化さまの薄情者! 尚のこと忘れちゃうの!? あたし、姜公なんか認めない、絶対に認めないからね!!」
マオルは、自分の言葉が皆を傷つけていると分かっている。
けれど、我慢できなくて。
これでは、あまりに尚が気の毒で。
残されたのは思い出と、その身体だけだったのに。
それさえ、姜公に取られてしまっては、尚という存在が一つもなくなってしまいそうで。
泣きじゃくるマオルに姜公が近づく。
星辰は、思わず身構える。
けれど姜公は、そのままふわりとマオルを抱きしめた。
「マオルと星辰がうらやましい。ずっと炳霊公様といられたんだから」
「……尚?」
それは、尚がいつも言っていた言葉。
少し悲しそうに、悔しそうに。
それでも、決して妬んでいるわけではなかった。
知らない分を、知っている者たちを好きになることで補おうと努力していた。
「ありがとう、僕のために泣いてくれて。大好きだよ、マオル。お願いだから、泣かないで」
姜公は、こんなことは言わない。こんな表情はしない。
「尚、本当にそこにいるのね……?」
うなずく笑顔も口調も、あの少年のものだ。
確かに、その身体の中には、両方の心が存在している。尚はほんのわずかな気配だけれども。
同じ身体から生まれた魂。
いつか、一つに溶け合うはず。
しばらくは誰もが戸惑ってしまうけれど、きっと時間が解決してくれるに違いない。
星辰はほっとして、その時を待つことにした。
――自分の中にもある、複雑な思いは心の奥底にそっとしまって。
その日、器が若返った姜公に、惚れ直した人面魚が何度も池から特攻し、そのたびに反撃を食らっていた。
どうやら、面識の無い人面魚の前には、尚は現われないようだ。
前よりも、さらに容赦なく跳ね除ける姜公に、マオルが大声援を送っている。
マオルと姜公が和解するのは、意外と早いかもしれない。
END
炳霊公、もてもて。でもすごく辛い立場。
古株にとっては、後から来たのに大きな顔されたら、そりゃ悔しいですよね。
三国志の孔明さん状態(笑)。
尚は天然の素直さで仙獣たちに可愛がられていた様子。
だから、余計に風当たりが強かったりして。
マオルや姜公視線にすると嫉妬が生々しすぎてきつかったので、星辰にしました。
でも、本当は星辰が一番、嫉妬深いんですよ。
篝火花はシクラメンのことです。
花言葉は、「はにかみ」「遠慮」「内気」などのほかに、「嫉妬」。
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