重なる刻


「なんでお前が、料理なんかしてるんだ?」
振り返りもせずに、太公望は答える。
「だって、世話になってばかりじゃ申し訳ないし。自分の分くらいは作ろうかと」
「そんなこと、気にするなよ。……あいつらだって、仕事なんだから」
黄家を支える、下働きの人たち。
天化は、決して彼らを軽んじているわけではない。
彼らがいてこそ、上の方はなんの心配もなく、政務に専念できるのだ。
だからこそ、逆に、彼らの仕事を邪魔するようなこともしてはいけないと心得ている。
それなのに、客人に厨房に立たれては、彼らも応対に困るだろう。
それは、太公望もよく分かっているのだが。
「そう? また作ってと言われたけど」
「……あいつら」
案の定、天化ががく、と肩を落とした。
彼らが怒られないように、あとで懐柔しておかないと。
「なんか手伝うか?」
「いいよ、黄家の若主人に手伝わせたりしたら、それこそ本末転倒――いっ!」
うっかり切った指先に、ぽつんと赤い粒が浮かぶ。
「馬鹿、余所見してっから!」
言うなり、なんのためらいもなく、口に含まれた。
舌先が触れる感触に、心臓が跳ね上がる。
「あとでちゃんと手当てしておけよ。……なんだ?」
太公望が硬直しているのに気づいたようだ。
ようやく、自分が咄嗟に何をしたか、思い至ったらしい。
「あ、いや、その、別に変なつもりはねぇぞ!」
焦ったものの、止血のために指元を押さえているので、手が離せない。
顔を上気させたまま、黙り込む太公望。
……気まずい。
ふいに、外からさざめくようなクスクス笑いが起こった。
はっと気が付くと、窓や戸口から、いくつもの目が覗いていた。
「お前ら、覗きなんかしてんじゃねぇ!」
「「「きゃー♪」」」
ぱ、と手が離された。
天化に怒鳴られて、女中たちが蜘蛛の子を散らすように逃げ出していく。
指先のケガはたいしたことはない。
もう血は止まっている。
やっと少し落ち着いて考える。
(天化って、なんか慣れてるよな)
きっと、天化にとっては、珍しくもなんともないことで。
たぶん、平然としていたら、弁解もしなかっただろう。
(きっと誰にでもやってるんだ)
……なんだか腹が立ってきた。
振り返った天化は、いきなり太公望が超不機嫌になっていることに気づいて慌てた。
「な、何怒ってんだよ!」
「知らない!」
蹴り出すように、太公望は天化を厨房から追い出した。

   †

懐かしい思い出。
今は遠い過去。
けれど姜公にとっては、まだ身近な記憶。
今に不満があるわけではない。
それでも夢と現の狭間で、不安が広がる。
ここは本当に自分のいるべき場所だろうか。
自分が求めているのは、どちらの現実なのだろうかと。
呼んでも、何も答えてくれない闇が広がる。
誰か――。

   †

甘い香りに目が覚めた。
両手にあふれるほどの、柔らかい真珠色の月李。
ニ、三度目をしばたいて、ようやく花が本物だと認識する。
姜公は驚く。
「どうしたんだい、これ?」
「いや、その……」
照れくさそうに口ごもる炳霊公。
「寄ったら咲いてたんでもらってきた」
「……これ、庭師さんの月李だよね」
偶然ということはあるまい。
今は天帝御用達の月李園を守っているという彼の人の元に、わざわざ立ち寄ってくれたのだ。
「いい香りだ――ありがとう」
大切に受けとって、大きな花瓶を用意する。
早く水に生けようと焦ったせいか、花瓶へ入れる時に、トゲをかすめてしまった。
指先に、ぽつんと赤い粒が浮かぶ。
「刺したのか!?」
炳霊公が、手を取るなり、口に含む。
――あの時と同じように。
「気をつけろよ……なんだ?」
太公望がくすくすと笑っているのに気づいたようだ。
ずっと前に同じことをしたとは、覚えていないだろう。
「天化は全然変わってないね」
「そりゃ皮肉かよ」
むっとした様子に、余計に笑みがこぼれる。
不安だった。
何もかも世界が変わってしまったようで。
けれど、この懐かしい花と香り。
そして、傍らに居てくれる人も、あの頃のまま。
何も変わっていないものがある。
それがとても嬉しくて。
ふいに、さざめくようなクスクス笑いが起こった。
はっと気が付くと、窓や戸口から、いくつもの目が覗いていた。
「お前ら、さっさと持ち場に戻れーっ!」
「「「きゃー♪」」」
天化に怒鳴られて、仙獣たちが蜘蛛の子を散らすように逃げ出していく。
もしかして、この宮に集った仙獣たちは、天化を慕って集まった、黄家の人々の生まれ変わりなのではないだろうか。
我知らず笑み崩れる。
こんなにも、現実にひきとめてくれる人たちがいる。
――これからはきっと大丈夫。

姜公はもう一度、真珠色の月李を抱きしめて、優しい香りに酔いしれた。

END


まだ時々、過去と現実があやふやになり、不安定な姜公です。
心配した炳霊公が何かと気を使ってくれるのが、実はかえって混乱の原因だったり。
――天化はもっとそっけなかったのに。なんて(笑)


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