「猿も雲から落ちる」


見下ろす世界は果てしなく、霞の向こうに消えている。
普通の人間には、この蓬莱は海上に浮かぶ山と見えるという。
選ばれた者しか、たどり着くことも上ることもできない聖なる山。
常に新春のような澄み切った気候の中で、見事な枝を伸ばした木々は露を滴らせながら、白銀の葉を茂らせる。
自然の庭園となった場所に、柱を組み合わせただけの簡素な東屋がある。
藤が絡みつき、若葉が屋根となり、大きな花房を垂れている。
長い髪の若者が、ようやく咲き始めた白い藤の花に寄り添うように立っていた。
ひらり、と落ちた花びらを受け止めて、ぽつりと呟く。
「ぼくはここにいて、いいんだろうか」
「ここ以外の、どこへ行くつもりだ」
それまで、生き物の気配などなかったのに。
ふいに背後に現れた者がぐい、と抱きすくめる。
捕らわれた方も驚いた様子はない。
振りかえらぬまま、続けた。
「行きたい場所があるわけじゃないけど……今のぼくは、ここでは何もできない」
一見頼りなさそうに見えるこの友人が、いざ何か引き受ければ比類ないほど有能で、芯が強く、悪く言えば融通が利かず、頑なであることを炳霊公はよく知っている。
しかしそれは、自分に課せられた責任や使命といった大きな枷(かせ)があってこそだった。
普通の人間ならつぶされかねないその重圧こそが、存在を支えてきた。
今、それらを見失い、戸惑っていることも理解している。
「俺は、お前に何かして欲しくて探してたわけじゃないぜ」
姜公が、するべきことを見つけられず、自分の居場所を得られずに焦っているのだと分かっている。
だが、人界で別れてから実に1800年。
少しばかりの休暇をとってもいいはずだ。
……というより、これだけ待ったのだ、もう少しくらい独り占めしてたって罰はあたらないはず。
実のところ、そういう魂胆があって、簡単に外界に触れることのないよう手を回していたりもする。
「まぁ、何かしたくて探してたってのは否定しないが」
「ば、馬鹿っ」
真っ赤になって押しのけようとする手をさえぎって、細い身体を腕の中に収める。
今手を離したら、本当にどこかに行ってしまうのではないか……。
ようやく取り戻したというのに、そんな不安が付きまとって消えない。
本当は、神界でも外界と隔絶しているこの蓬莱に、閉じ込めておきたいくらいだ。
そんなことはできないと分かっていても、せめてあともう少し……。

どっかーん!!

大音響と共に、藤棚が倒壊した。
呼び出した莫耶宝剣で崩れ落ちてきた枝などを切り捨てた炳霊公は、その元凶を見つけて切っ先をつきつける。
「輪切りにされてぇのか、猿!」
「わ、悪かったよ、わざとじゃ……」
下界にいるはずの孫悟空だった。
炳霊公の剣幕にたじたじとなって、あわてて飛び退った悟空の背後から、別の声が上がる。
「君は500年山に閉じ込められてたんだっけ。もう1000年くらい閉じ込めてあげようか?」
……満面の笑顔、美しい線を描く口元ががつむぎだす言葉は恐ろしい。
悟空は思わず、自分に剣を向けている炳霊公に助けを求め、背後に隠れる。
「なんかあいつ、釈迦よりこええ気がするけど……」
「盾にするな、俺だって怖い……」
怒っている時、自分よりさらに怒っている者が近くにいると、いきなり頭が冷えるもの。
天界きっての武神将炳霊公、天界を騒がせた斉天大聖孫悟空、最強とも言える二人を、一見たおやかな佳人は震え上がらせた。

  * * *

「それにしても、お前が落ちてくるとはな。自慢の雲はどうしたよ」
「それだよ! それで相談に来たんだ」
「相談? 何で俺なんだ? 関わりで言えば、那咤や楊センの方が親しいだろうに」
「あいつらには! 絶対に知られたくねぇ!!」
悟空にとって、何か不名誉なことらしい。
自分から来たというのに、悟空はしばらく用件を言うのをためらっていた。
直情で迷うことの無いはずの石猿にしては珍しい。
これはよほどのことかと、炳霊公たちも興味を持って待つ。
ようやく口を開いた悟空が告げたのは……
「雲に乗れなくなったぁ?」
「それで、どうやってここまで……」
「天界行く途中の使い鳥の足につかまってきたんだけどよ、この上辺りでいきなり雹と突風と雷にあっちまってな」
「ああ、三山は自然の力で侵入者を阻んでるからな」
「雷が一番容赦なかったぜ」
「……雷は最近こいつが追加したんだが……」
炳霊公が姜公を指す。
にっこりと微笑んで、「無事にここについたってことは威力が足りなかったみたいだね」とさらりと言ってのけた姜公に、孫悟空は改めて逆らうまいと決意する。
「それで、乗れなくなったってのは?」
「……キン斗雲!」
自慢の雲が光の速さで飛んでくる。
「来るじゃないか」
「それがよ……」
とんぼがえりをうち、雲に飛び乗る孫悟空。
だが、その身体は雲をつきぬけ、真下に落ちた。
「……というわけなんだ」
落ちたその場で、がっくりと膝をつく。
普段の移動にも愛用していただけに、かなりショックだったらしい。
「せっかくアスラ倒して自由になったから、これからは三蔵と世界中旅してみようと思ってたのによ……これじゃ行けねぇ……」
自分で言って落ち込んできたのか、しょげかえり、地面にのの字を書いている。
「俺、もしかして力なくなっちまうのかなぁ……どうしよう、三蔵に嫌われちまうよ……」
天界を騒がせた怖いもの知らずの孫悟空とは思えないほど弱気な言葉。
力を持つからこそ、それを自分の存在価値であると信じ、それを頼りに自由に生きてきた。
それを失った時に恐れるのは、自分の名声や安全といったことよりも、自分を必要としてくれていた者が、離れて行ってしまうのではないかということだ。
その心情を誰よりも理解し、自分の不安をも一緒に吹き払おうとするかのように、姜公は悟空を捕まえて叫んだ。
「何を言ってるんだ。たとえ仙術すべて失ったって、三蔵殿の態度が変わるわけない。三蔵殿は雲に乗れるから悟空を好きになったわけがない! 役に立つからじゃない、悟空だから好きなんだろう!」
じわっと涙のにじんだ目で、悟空はすがるように姜公を見る。
「本当にそう思うか?」
「もちろん」
「そっか……よかったぁ」
その一言だけで安心してしまったのか、悟空は見るからにほっとした顔になる。
分かってるじゃないか、とでも言いたげに、炳霊公がニヤリとして姜公を見た。
その視線には気づかなかったふりをして、姜公は続ける。
「できなくなったのは、雲に乗ることだけなのかい? 他の仙術は?」
「今のところこれだけだ」
見たところ、元気はありあまり、仙術の腕も落ちているようには見えない。
「……仙人の話にあったよね。肌もあらわな仙女見たら、それまでに得た力なくしちゃったっていうの……」
「ああ、邪な考えもったせいで、修行がぱぁになったってやつだろ。まぁ、別に色事は禁忌じゃない。それはその仙人が修行不足で女見たせいで気が乱れて術が使えなくなっただけだろうが……どうだ、悟空。なんか心当たりでもあるか?」
「ば、馬鹿言え! 俺は三蔵に邪なことなんかこれっぽっちも考えたことなんか……」
一瞬の沈黙の後、炳霊公と姜公が容赦なくつっこむ。
「「…………相手が三蔵とは言ってない」」
「うあああああっ!!」
「墓穴掘ってるね」
「掘りまくってるな」
頭を抱え、幻の三蔵に向かってぶつぶつと弁解と謝罪を繰り返している悟空を放置して、二人はあれこれと解決方法を検討していた。

* * *

雲に乗れなくても大丈夫と諭されて安心はしたものの、やはり常用していた乗物がないというのは困る。
思いつく限りのことをやってみようと、蓬莱山の澄んだ泉で水行してみたり、薬湯を飲んでみたり、色々試してみたのだが、効果が無い。
「ところで、気になってるんだけど……この雲、やけに薄くないかい?」
疲れ果ててひっくり返った悟空の横で、待機中の雲をぽすぽす、と叩いて姜公が呟く。
それを聞いて、孫悟空が叫んだ。
「あああああっ! 分かった!」
今までの疲れもどこへやら、飛び起きて尋ねる。
「この辺りに雲海はねぇか?」
「下の方は海風で大抵雲だらけだぜ」
「ありがてぇ、補充してくらぁ!」
「補充?」
「500年前、釈迦にとっつかまる前に作った雲だからよ、薄くもなるよな、うん」
わっはっはと豪快に笑ってのける悟空。
「……ぺたんこになった座布団状態だったのか」
「綿の入れ直しだね」
呆れる二人を前に、すっかり元気を取り戻した悟空が気合いを入れて、とんぼ返りをうつ。
「行っくぜー!」
その一瞬後。

「うああああああぁぁぁぁっ…………」

悲鳴がはるか崖下に落ちていく。
「……自分で補充しなきゃって言ってたくせに乗るんだから……」
「猿頭だな」
「だね」
「拾ってくる」
ひょい、と飛び降りていく炳霊公を見送って、姜公は呟いた。
「役に立つから好きになったわけじゃない……か」
そんなことを言ってくれる相手だからこそ、何か役に立ちたい。
守られるだけでなく、対等の立場でいたい。
しばらく考えた後、遥か天上を見上げて、一人うなずく。
何かを決意した表情だった。
そして、雲に乗って上機嫌で戻ってきた孫悟空に、にっこりと藤棚の修理を命じたのだった。

END


……自分でも何かやっていないと落ちつかない人は、遊んでていいよと言われてもかえってストレスがたまるもの。
姜公の場合、本当に一人だったら、静かに修行していても苦じゃないと思うのですが。
思いつめた姜公、この後、就職活動して大反省することになります。


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