水簾洞(すいれんどう)
遥か天井の岩の隙間から、細い月の光が差し込んでいる。
雫の落ちる音だけが、たゆたうような闇の静寂を時折破る。
数百年をかけて作り上げられた苔の寝台の上に、連れて来た姜公を横たえ、目覚めを待とうとその傍らに腰掛ける。
まどろんでいた時に聞こえた、「雨音が聞きたいな」という呟き。
ふと思い出したのは、この自然が作り上げた天然の水琴窟だった。
起きた時の驚いた顔、辺りを見回した時の嬉しそうな顔。
色々想像してみるが、本物には到底敵わない。
夜明けまでは、まだ少しある。
早く起きて欲しいような、寝顔を見ていたくて、いつまでも眠っていて欲しいような。
夜光虫の煌きの中、ぱきん、と小さな音がした。
振り返ると、小さな卵のような形の石が割れていた。
その前に……子猿がいた。
辺りをきょろきょろと見回し、炳霊公に目を留める。
自然物が長い年月を経て霊性を帯び、命の元を生じることがある。
神気を受けて誕生が早まったのか。
無機物に生命が宿ること自体は起こりうると知ってはいたが、それを目の当たりにしたのは初めてだった。
驚いているうちに、子猿は生まれたての怖いもの知らずで、いきなり炳霊公に飛びついた。
無邪気に髪をひっぱり、遊んでくれと訴える。
どうしたものかと悩んでいるうちに、子猿は苔の寝台の上で眠る姜公を見つけた。
自然の化身なだけに、綺麗な霊気が大好きなのだ。
「触るな」
飛びつこうとするのを、首根っこを捕まえて、容赦なく引き離す炳霊公。
たった一人に関しては、自他共に認める大人気のなさである。
姜公が目を覚ます前に、どこかに捨ててやる。
アスラ戦を前にした時と同じ位の気合いで、炳霊公は考えた。
***
気楽な旅の空、朝食の後、のんびりしている時だった。
突然傍らで神気が渦巻き、見覚えのある武将神が姿を現した。
そんなにちょいちょい人界に来ていいのかと、からかおうとした悟空に、炳霊公は小さなものをつきつけた。
「……これ、引き取ってくれねぇか」
「へ?」
首根っこを捕まれたまま、初めての景色や人物に、きゃっきゃと喜んでいる子猿。
だが、ただの猿ではないのを、悟空はすぐに見て取った。
「こいつは……」
自分と同じ気配を感じる。
自然が長い年月をかけて生じさせた生命。
自分と同じものはこの世にいないと思っていた。
力を手に入れても、仲間がいても、この広い世界に、自分はたった一人だと思っていた。
「そっか、石猿は俺だけじゃなかったのか」
感慨深く呟いた時、
「可愛い!」
駆けつけてきた三蔵が、炳霊公が手にしたものに気付いて叫んだ。
子猿も、大喜びで三蔵にしがみつく。
べったりとなついた子猿を見て、悟空は炳霊公がこれを人に押し付けようとした理由をたちまち理解する。
「水簾洞に連れていこう。あそこなら、俺の仲間たちもいるしな」
三蔵のそばには置いておけねぇ。
炳霊公には、悟空の心の声が聞こえたような気がした。
***
花果山水簾洞。
五百年前、悟空が見つけ、自分の王国を作り上げた場所。
堅牢な住居、たわわに実る果樹。
猿たちの楽園。
大王の訪れに大喜びの猿たちは、悟空が連れてきた小さな新入りを快く迎え入れた。
子猿も、自分と同じ位の子供たちを見つけて大はしゃぎしている。
その様子を眺め、炳霊公は苦笑した。
「こいつも、将来は天界へ攻め込んだりするのかね」
「いや……そうはならないさ」
照れくさそうに、しかしきっぱりと悟空は答えた。
「あの頃、俺の周りには俺と対等な奴がいなかった。美猴王なんて持ち上げられて、思い上がって……でもそれ以上に、俺は多分、寂しかったんだ」
自分を大将と持ち上げる連中はたくさんいた。
けれども、友達と言える、心安くつきあえる者がいなかった。
どんなに大勢の姿の似た者たちに囲まれても、自分はいつも一人きりだった。
悟空を悟空として見てくれる者。
それを求めて、天界にまで行った。
そこには確かに、対等に戦える奴がいた。
……けれども、彼らでさえ捜していたものではなかった。
求めているものが見つからなくて、何を求めているのかさえ分からなくなって、やたらに暴れていた。
けれども、それは仕方なかったのだ。
その頃には、まだその存在たちは生れてもいなかったのだから。
「あのチビは、早めに生れちまったせいか、そんなに力はない。その分、普通の猿共と普通の仲間になれるだろ」
数百年後は分からないけどさ、と笑う悟空。
「そういえば、五百年前に俺が天界に行った時、あんたはいなかったよな」
「……どこかに出かけてたか。後で、騒ぎを聞いた覚えがある」
「どうせ、人界に姜公を探しに行ってたんだろ」
黙ったところを見ると、図星だったのかもしれない。
「ところで、いつまでも人界にいていいのか?」
悟空の素朴な疑問に、はっと我に返る炳霊公。
子猿の騒ぎで、誰かさんのことをすっかり忘れていた。
「悪い、礼は今度改めてな!」
「おう、雷を避けきれたらでいいぜ」
その後、炳霊公は内緒で人界に下りた罰で、謹慎を食らったと風の噂で聞いた。
だが悟空は、自分の不吉な予言が当ったのだろうと、容易に想像することができた。
END
寝起き顔を見られず、お礼も言ってもらえなかった上に、雷を食らってしまった炳霊公様に、励ましのお言葉を。
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