篭絡するその匂い
耳元で呼ばれたような気がした。
だが近くにその声の主はいない。
辺りを見回してみると、広場の店の脇に、隠れるように太公望がいた。
こちらを見て、手招いている。
わざわざ術に声を乗せて飛ばしたようだ。
どうやら内緒ということらしいので、子牙には黙ったままその場を離れる。
「どうした?」
「さっき、黄飛虎殿が捜していたんだ。会いたくないんじゃないかと思って」
あのクソ親父、また何か説教垂れるつもりか。
「子牙」
野太い声に振り返ってみると、案の定。
親父殿が子牙に声をかけている。
「天化を見なかったか?」
「あれ? さっきまでいたんだけど……」
危なかった。
きょろきょろする子牙の視線を逃れて、さらに店の天幕の陰に隠れる。
「そうか……ちと話があったのだが……」
「そういや、仲間で血が繋がっているのは黄飛虎と天化だけだな。なあ黄飛虎、あんたから見た天化ってどんな感じなんだ?」
子牙は幼い頃に両親を失い、祖父に育てられたという。
仲が悪くても親子である黄飛虎と天化には、特別の憧憬があるのだろう。
しかし。
「修行が足りない若造って感じか?」
子牙の言葉に、天化ががくっと肩を落とす。
「あはは、子牙もなかなか言うね」
「あんにゃろう……」
黄飛虎が大きくうなずいた。
「そうだな……わしからすれば天化はまだまだだ。第一、あやつは落ち着きが足りぬ。周軍の副司令でありながら、今までも度々、軍律を破って勝手なことをしてきおった」
難しい顔で答える父親に、天化は大げさに肩をすくめた。
「……よく言うぜ。俺が動かなかったら、蛮獣や九竜の動きに気づきもしなかったくせによ」
その言葉に、太公望は首をかしげた。
「黄飛虎殿は、蛮獣の調査や退治のことを言ってるんじゃないと思うよ。あんなに言われるなんて、君は一体どんな軍律を破っていたんだ?」
「……それ以外と言うと、行軍練習のサボリとか、訓練帰りに茶屋で飯とか」
「副司令として、それはどうなんだ。子供じゃあるまいし」
じろりと睨まれ、触らぬ神にたたりなし、とその場を離れることにする。
都での女遊びのことは黙っていよう。この潔癖症にバレた日には、一体何を言われるか。
そう思った瞬間。
後ろから背中に蹴りが入った。
***
周軍の幹部の直下となれば、他の兵士たちに比べてかなりの無理を要求される。
しかも副司令は、道士にして剣豪の天化である。
普通の人間なら腰を抜かすような敵や、戦いに巻き込まれることも多い。
それを考えれば、部下たちはよくついてきている。
彼らは仙道の修行をしているわけではない。
たまには息抜きもさせてやらないと、さすがに気の毒だ。
というわけで、彼らがこっそり城下町へ遊びに行こうと計画しているのに気づいた時、その程度は目を瞑るつもりだった。
もちろん、口止めも兼ねて、誘われるのは計算のうち。
「兄さん、男前だねぇ。気に入った娘はいたかい?」
宴もたけなわになった頃、一番人気と思われる、艶やかな装いの娘が、色っぽくしなだれかかってきた。
昔なら、据え膳食わぬはなんとやらで、ありがたくいただいたところなのだが。
冷たくならない程度に、回された手を解いて、隣の部下に押しやっておく。
「こいつがあんたに気があるらしい。遊んでやってくれ」
「あらん」
「姐さんたちの色香に酔ったみたいだ。ちょっと外で醒ましてくるよ」
宴席から立ち、部下を残したまま庭への通路へ出る。
取り残された遊び女たちが、未練たっぷりにその後姿を見送っていた。
「あの人、遊び慣れてるみたいだけど、意外にお固いわねぇ」
残念そうに呟くのに、一番年長の部下が、酒をついでもらいながらおっとりと笑った。
「意中の方がおられるのだろう」
その言葉に、彼女らの間から歓声が上がった。
*
外に出た天化は、大きく夜気を吸って、ようやく一息ついた。
……まいった。
酔ったというのは、あながち嘘ではなかった。
「やべ……匂いが苦手になってやがる」
仙人たちに言わせれば、それこそが彼らの嫌う「人界の俗な空気」なのかもしれない。
強調しすぎた花の香りや、白粉特有の甘い匂いを不快だと感じてしまった。
しかし、人界の女たちは化粧もすれば、香りも身にまとう。
町や村なら、化粧っけのない者もいるかもしれないが、まさかそんな娘に手を出すわけにもいかない。
本気になられたら面倒だ。
ということは……。
ちょっとした火遊びも禁止されたに等しい。
(一体なんの呪いだよ、おい)
がっくりしていると、不意にかすかな香りがした。
顔を上げてみると、月明かりに、たわわに実をつけた桃の木が照らされていた。
実っている桃から漂う、ほんのわずかな匂い。
そう、このくらいが丁度いい。
そういえば、いつもこの匂いをさせている奴がいたな。
仙力の補充として、ちょくちょく仙桃を口にしていたせいか。
近くにいるとすぐ分かる、甘く誘うような、それでいて押し付けがましくない。
あれに慣れすぎてしまった。
人間というのは欲深で、最上のものを一度手にしてしまうと、他では妥協できなくなる。
自業自得ということか。
大きく嘆息して、宴席から失敬してきた酒を、不機嫌にあおるしかなかった。
***
……この三年というもの、かなり禁欲生活を強いられていたというのに、なんで自分はこいつに足蹴にされてるんだ?
ようやく起き上がると、傍らには子牙と、大満足という顔の父親がいた。
「おお、太公望殿。わしに代って天誅食らわせていただいたようですな」
言い返したいところだが、再び元大将殿の蹴りが炸裂しそうなので止めておく。
「おい、背中に足跡ついてんじゃないだろうな」
「大丈夫。沓脱いだから」
そんなところだけ気を使われても。
というか、わざわざ沓を脱いで、あの絶妙なタイミングで蹴りを入れたのか。
一体いつから用意してたんだか。
「おーい、太公望、珍しい果物が売ってるぜ」
広場の店を回っていた子牙が、遠くから呼んでいる。
「今行く!」
駆け去っていった後には、微かな桃の香りだけが残っていた。
おわり
「香」の設定をつけたために、食べた果物に影響されやすいうちの太公望さん。
皆に色々食べさせられていたりして。
そういえば、一時期流行ましたよね。
カプセル飲むと、バラや果物の香りになるというサプリやキャンディ類。
原理としては嘘ではないらしいのですが、あれで効果が出ている人がいるとは思えない……。