山の端に沈む月 弐


「まったく、一体いつの間に、うちの隊を丸ごと懐柔してしまったんですか。恐ろしい人だ」
食事の後、ダインは、王子に提供した室を訪れていた。
彼の直下の部下たちは血の気が多く、王子の一行を山賊一味と疑っていた急先鋒とも言える連中だった。
それが、たった数刻で、まとめて態度を変えていたのには驚かされた。
聞いてみれば、ほんのわずかの間、訓練をつけてもらっただけだと言う。
それほど話す時間もなかっただろうに……。
剣を交わすだけでも、人柄に触れることができたということか。
「少々、人が好すぎるのが心配といえば心配ですがね」
からかうように言えば、照れくさそうに笑うとばかり思っていた。
だが予想外に、いつもの笑顔が返ってこなかった。
「私はそのように言っていただける人間ではありません」
自嘲ぎみな表情と、つぶやき。
「――私は臆病で卑怯な……裏切り者ですから」
ダインとて、ベルクートとは、王子がセーブルに到着した時に会ったのが初対面だ。
だが、少しでも話してみれば彼の人となりは分かるというもの。
これほど、似合わない言葉もないと感じた。
「……失礼いたします」
軽く会釈をして、ベルクートは部屋から出て行こうとする。
その時、王子が動いた。
普段あれだけ柔らかな雰囲気の王子が、扉の前に立ちふさがり、今まで見たこともない厳しい目をして言った。
「今の言葉……説明するか、撤回するまで、ここを出ることは許さない」
鋭い声に、はっと我に返った剣士が、その場に立ち尽くす。
当惑気にしばらく視線をさまよわせた後、恐る恐る口を開く。
「……単なる戯言です。お忘れください」
「話して」
王子の揺るぎのない言葉に、ベルクートは口篭もるばかりで、はぐらかすことも出来ずにいる。
誠実すぎる性格のために、誤魔化すことすらできないのか。
「本当に、殿下にお聞かせするようなことではないのです」
「話さないと行かせない」
ベルクートは、なんとか逃れようと考えていたようだが、とうとうあきらめの表情となった。
しばらくためらった後、静かに話し始める。
「私が昔、闘技奴隷だったことは、前にお話した通りですが……闘技奴隷の戦いには、互いに武器を持って戦うものと、『猫と鼠』と呼ばれるものがありました。『鼠』は武器、防具の所持が許されません。『猫』に嬲り殺しにされるだけの存在です。貴族を楽しませるだけの、そういうゲームなのです。――しかし、『鼠』にもたまに多少腕の立つものが混じります。『猫』から武器を奪い取り、逆に倒せば『鼠』の勝ちです。……私はそんな『鼠』の一人でした」

***

「おい、そこの若いの。お前、いくつだ?」
いきなり声をかけられて、石牢の隅で若者は顔を上げた。
疑いと怯えの混じった目で、相手を睨む。
「多分……18……」
「腕は立つそうだな。だが、『猫』にとどめをささないために、『鼠』から上がれずにいると聞いたぞ」
その男は、その日から同じ牢に入れられた者だった。
ここに来る前に、何か名を立てていたのだろう。
剣術の闘技奴隷として、明日から出ると聞いていた。
それが、何故自分などに声をかけるのだろうか。
「それでもお前は直に『猫』にあがるだろう。『鼠』に比べれば、確かに待遇はあがる。だが――お前は人を殺すことができるのか?」
「……っ!」
「『猫』になれば、貴族どもの望む通りに『鼠』を嬲り殺しにしないと満足されん。相手を殺さない『猫』など、『鼠』に逆戻りか、すぐに処分されるか、だ」
『鼠』として闘技場に出されるたびに、自分は生き残るために相手を倒してきた。
だが、どうしても奪った武器を振り下ろすことができなかった。
相手は……その場で助かったことを喜ぶ者もいれば、何故いっそ殺してくれぬと叫ぶ者もいた。
その場では助かっても、下位の者に負けた奴隷は、持ち主である貴族の不興を買えば、その日のうちに処刑されることさえあるのだ。
「俺はこのストームフィストの元将兵でな。それなりに腕が知られているし、話題性もある。それで、最初から『剣技奴隷』にしてもらえたわけだ。まったく、ありがたい話さ」
肩をすくめ――男は続けた。
「明日、俺の試合がある。それなりに騒ぎになるだろう。……その隙に、お前は逃げろ」
信じられない言葉だった。
物心ついた時から、自分は闘技奴隷だった。
このままこの闘技場の外を見ることもなく、死んでゆくのだと……そう思っていた。
「この先に、地下通路に続く抜け道がある。幸いお前の刺青は隠すことができる。見つからずに町を出ることもできるだろう」
――何故?
信じるものかと、睨み付けるような視線を浴びながら、男は自嘲するかのように笑った。
「俺には息子がいた。病がちでな。俺は戦ばかりで何も構ってやれなかった。手柄や報酬は片端から上に取り上げられて、ろくな看病もしてやることもできなかった」
静かに、淡々と語る声。
「もたもたしているうちに、下手な気休めでは持たないところまで病状が進んじまった。必要な薬は、とんでもなく高いもんだった。――俺は、その薬のために自分を闘技奴隷として売ったんだ」
ふいに、声に怒りが帯びた。
「だが、雇い主である貴族は……息子に満足な治療を受けさせるどころか、薬も与えずに放置し、死なせやがった」
震える拳を、硬く握り締めている。
「俺が奴隷にならなくても、同じ結果にはなっていたかもしれん。だが、俺は奴だけは許せんのだ……!」
しばらくの間、石の壁をにらみつけた後、彼はふと表情を緩めた。
「息子は……ちょうど、お前くらいの年だったんだよ」

***

男の言った抜け道は、本当に存在した。
行き止まりとしか見えない石の壁が、わずかに動くようになっていたのだ。
その先は地下水路となっており、わずかに風が吹いていた。
空気の動きを頼りに、外を目指す。
そして出たのは、薄暗い森の中だった。
初めて見る世界に、半ば呆然として歩き出す。
触れる木や草が、現実のものであることが、どうしても信じられなかった。
こんなにも美しい景色が、石壁のほんの少し先にあるとは知らなかった。
どれだけの間、木漏れ日が差す木立に目を奪われていたか――。
ようやく、他の奴隷たちにもここを教えてやることができるのでは、と考えた時だった。
自分が出てきた場所から、複数の人間たちが走り出していた。
牢の看守だ。
「見つけたぞ、脱走した奴隷だ! 捕まえろ!!」
気づかれた。
……逃げること自体には自信があった。
今まで、伊達に『鼠』であったわけではない。
――追っ手はさらに増えている気配だ。
もう地下通路には戻れない。
残してきた他の奴隷たちを見捨てている、ということは自覚していた。
だが、たとえ命を失うとしても、あの闇の中には戻りたくなかった。
森を走り抜け、追っ手を振り切った。
このまま逃げることもできる。
だが、自然と足は闘技場に向かっていた。
あの男は強い。
倒されるはずはない。
けれど、その成り行きだけは、どうしても確かめておきたかった。

***

建物の間の狭い路地から、様子を探る。
観戦後の、興奮冷めやらぬ人々が通り過ぎていく。
その中の声が、やけにはっきりと聞こえてきた。
「聞いたか、今日の試合」
「ああ、元将兵が優勝だって? さすがだな」
「馬鹿、その続きだよ!」
「なんでも、闘技奴隷を一人脱走させたとかで……処刑されたらしいぜ」

時間が止まったようだった。

――殺サレタ。アノ男ガ。

「残された奴らも、見せしめとして鞭打ちの上、当分飯抜きだとよ」
「今いる連中の半分くらいはくたばっちまうんじゃないか?」
所詮は他人事。
市民たちは、笑いながら去っていく。

どれほど立ち尽くしていたのか。
ようやく、耳に雑踏の音が戻ってきた。

自分は分かっていたはずだ。
逃げ出せば、残された者がどのような目に合うのか。
分かっていて、逃げた。
――死ぬのは怖い。人を傷つけるのは、もっと恐ろしい。
けれど、試合の中で直接手を下すのと、『猫』の立場から蹴落として他の者に手を下させるのと、一体どれだけ違うというのか。
あの男も、対戦した闘技奴隷たちも……彼らの命は奪ったのは、間違いなく自分なのだ。

ともすれば崩れそうになる足で、その場から駆け出す。
どこでもいい、ここではない場所へ。

その日から、自分は逃げ続けてきた。
目を瞑り、耳を塞ぎ、すべてから背を向けて。

***

途中から背を向けていた王子が、振り返りもせずに言った。
「今日はもう休んでいいよ」
「……失礼いたします」
彼の足音が消えるのを待って、ダインは口を開いた。
「王子。10年前の闘技奴隷の脱走、私も聞き及んでおります。しかし……私の知っている話とは少し違う」
遠く離れた都市での出来事。
真実は知りようもない。
しかし。
「闘技奴隷の一人が脱走した日、その混乱に乗じて、元将兵であった者が自分の雇い主である貴族を殺した、と。そのため、他にも共謀者がいないか、闘技奴隷たちは拘束され、徹底的に調べられたのだと……そう聞いております」
ならば、その男に利用されたのはベルクートの方だ。
「彼もそれを知らないはずはない。恐らく、そのことも分かった上で――」
過去、見捨ててしまった者たちへの罪悪感。
あの極端なまでの人当たりの良さは、もう二度と同じ思いをしたくないという、彼なりの自己防衛なのかもしれない。
自らを犠牲にしてでも、他者のために動こうとするのに……人からの好意を受ける資格はない、と自らを戒めているように見えた。
「うん」
ようやく王子が顔を上げた。
お気に入りだったはずの剣士を突き放すのではないか……というのは、ダインの杞憂であったようだ。
「あんな人、だから、ね」
最後まで言わず、王子はにこりと笑った。

***

「……明日からは、お呼びいただけないだろうな」
部屋の窓から見える青い月を眺め、ベルクートは一人呟いた。
きっと王子は呆れているに違いない。
自分が志しているのは、決して崇高なものではなく……ただの、自分の過去の罪をわずかでも償うためだったのだから。
剣を捧げると言いながら、共にいれば、闘技奴隷を解放するという目的も達成できるかもしれない、という打算がどこかにあった。
そんな浅ましい思惑を見抜かれてしまった。
まだ戦乱のうちとはいえ、暖かい寝床、用意された食事。そばにいるのは、いつ寝首をかかれるか分からない敵ではなく、守りたい人々。
自分は今、どれだけ幸福であることか。
だが、あの場所には、あの頃の自分と同じ状況の者がいる。
まだあきらめるわけにはいかない。
たとえ、王子殿下から切り捨てられても、自分はこの目的を手放すことはできない。
いずれ、一人でストームフィストへ向かうことになろうとも。

だが今は。
自分よりもさらに苦難の道を行く王子を助けたい。
それだけは、嘘偽りない本心だった。

***

――翌日。
早い朝食の後、王子は噂の山賊討伐のために、仲間たちに指示を与えていた。
「今日は少数精鋭で行く」
山道は、大勢が動くことはできない。
人が多ければ、その分気づかれるのも早くなる。
「まずは、山道の案内と、山賊を捕まえた時に状況を確認してもらう意味で……ダイン殿とその部下の方たちを数名」
「心得ました」
「それからリオン、叔母上」
やはり、名を呼ばれない。
指名されるとは思っていなかった。
しかし、彼らだけを危険な場所へ赴かせるわけにはいかない。
あとからこっそりと後をつけてでも護衛するつもりだった。
王子が傍らを通り過ぎるのを、黙礼で送ろうとした時。
「ベルクート、行くよ?」
驚いて顔を上げる。
「あの……私は指名されていないのでは――」
「何言ってるの。ベルクートは言わなくても当然メンバーだよ」
いたずらっぽく笑って、早く、と腕を引く。
「……殿下、よろしいのですか?」
「もちろん。これからも前線で活躍してもらうからね、覚悟しておいて」
「は……はい、光栄です!」
「こき使うって言ってるのに、喜んでどうするの」
一見いつもと変わらぬやりとり。
不思議そうに見ていたリオンが、サイアリーズにこっそりと尋ねる。
「昨日、何かあったのでしょうか?」
「さぁね、酒でも飲ませて、面白い昔話でも聞き出せたんじゃないか?」
「王子はそんなことしません!」
当たらずとも遠からず、という会話が聞こえてくる。
ストームフィストに居た時、自分が闘技奴隷であった過去を話しても彼らは見る目を変えなかった。
それが嬉しかった。
そして、王家の主従たちの暖かいつながりがとてもうらやましかった。
闘神祭で勝利するという目的の中には、その輪に近づきたいという夢も生じていたのかもしれない。
あれから、王子たちも自分も大きく運命が変わってしまったけれど。
自分の剣が役に立つことを、誇りに思う。

山の端に浮かぶ青い月は、直に沈む。
代わりに黎明が、辺りを満たす。
この先何があろうとも、自分はその光を守る剣となろう。
いつか、その淡い輝きが、真の陽光となる日まで。





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……ベルクートさんの人の好さは、彼の過去を考えると少し異常だと思うのです。
笑えるようになったのは、お師匠様の導きと彼自身の強さなのでしょうけど、
本当に許せないのは、闘技奴隷制度や貴族ではなく、かつて逃げ出した自分。
その反動で、今の自分にできることは何でもしようとするけれど、
人からの好意を受け付けない状態になっているのではないかと、勝手に妄想。
王子が、そんな殻から引きずり出してくれる存在だといいな。
もっとも、マリノは、単に「10も年下の女の子は恋愛対象外」なだけのような気も。


ゲーム中では集団戦闘がとても嫌いでした。
HP扱いで減っていく死者数があまりに悲しくて。
もちろん、実際の戦争はそういった無感情なものであるし、
後半、無傷で勝利することができるのも分かっていますが。
単純に減っていく数値が、すごく嫌でした。

その他大勢の人たちだって、笑って泣いて、一生懸命生きているはず。
そんな雰囲気が出せればいいな、と思って騎馬隊さんたちを出してみました。




山の端に沈む月 壱へ

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