最期の瞬間(とき)まで、きっと何より大切な 壱


「こんなところに人が来るなんて珍しいなぁ」
滝壷の前、岩場に座っていた少年が言った。
「そういう君だって、なんでこんなところに」
王子に尋ね返されて、彼は首をかしげた。
「ミューラーさんが、滝にでも打たれて来いって言うから」
「ミューラーさん?」
「でも水は冷たそうだし。ミューラーさんは修行しろって言ってたけど、あとは何したらいいのかなぁ」
何か、微妙に話がかみ合っていない。
「あれ……もしかして、闘神祭に出てた?」
金髪に見覚えがあった。
闘神祭の初日、王子たちは、試合の対戦者にしびれ薬を盛ったという出場者とすれ違った。
その時、医務室で寝込んでいたのが、確か。
「うん、そうだよ。ミューラーさんが出てみろっていうから、申し込んでみたんだけど」
「――リンドブルムの剣王か」
ゲオルグの言葉に、少年……リヒャルトはうなずいた。
「試合に出る前に負けちゃったから、ミューラーさん、怒る怒る。でもわざわざ医務室まで来てくれたんだよね、嬉しかったなぁ」
その時のことを思い出してか、幸せそうににこにこしている。
あの寝顔も幼く見えたが、今の警戒心の欠片もなさそうな笑顔はさらに年齢がよく分からない。
これが本当に、無敵で鳴らすリンドブルムの突撃隊長なのだろうか。
滝に向かって何度か「ミューラーさーん」と叫んでいたが、気が済んだのか、くるりと振り返った。
「君、ファレナの王子様だよね?」
「う、うん。……こっちは、カイルとゲオルグ……」
「名前はいいよ。どうせ覚えられないし」
あっさり言われて、ちょっとむっとした王子は、残りも続けて紹介した。
「リオン、ダイン、ジーン、ゼラセ、ベルクート」
興味なさそうだった少年が、最後の名に、少しだけ反応した。
「――闘神祭で決勝まで残った人?」
「そうだけど」
王子が、深く考えずに素直に答えた途端。
少年の顔から、笑みがふっと消えた。
敵の実力を測るような、軽く伏せられた目。
そして、口の端が、わずかに上がった。
「……この人を倒したら、ミューラーさん、褒めてくれるかなぁ?」
口調こそ、今までと変わらぬ間延びしたものだが……辺りが一気に冷えたようだった。
咄嗟に、ほぼ全員が己の武器に手をかける。
洞窟内の空気が張り詰める。
しばらくして――急に少年は、笑い出した。
「あはははは、面白い! 本人じゃなくて、他の人たちが構えてる」
楽しそうな笑顔に、戦闘体制に入っていた面々が、気勢をそがれてきまり悪げに顔を見合わせる。
確かに、一番後ろ、皆にかばわれる形になったベルクートだけが、剣に手をかけずに立っていた。
少年と、仲間たちを見比べて、あわてて話題を変える。
「我々はここに、主と呼ばれる生き物がいると聞いて来たのですが……」
ベルクートの言葉に、リヒャルトは首をかしげた。
今までと変わらぬ雰囲気で、ふわふわと笑っている。
「あのおじいちゃんのことかな」
「おじいちゃん?」
「若造は面白くないとか言われちゃって、あまり出てきてくれないんだ」
彼が指差した滝壷の方で、それまでとは違う水音がした。
「あ、珍しい。出てくるみたいだよ」
姿を現したのは、巨大なカメであった。
陸地にいる人間たちを見回し、機嫌悪そうに呟く。
「ん? 何やら、ものすごぉ長生きの気配がしたような気がしたのじゃが……」
なんと、人語を操っている。
「なんじゃ、つまらんのう、若造ばかりか」
溜息をついた、その時。
その古めかしい顔が、急にこわばった。
「わ、わしの勘違いだったようじゃ!」
いきなり若返ったかという勢いで、ばしゃばしゃと水をはね散らかしながら、老亀は滝壷の方へ戻り、それきり沈んでしまった。
「いっちゃった……」
「なんだったのかしらね?」
「愚かしい――」
約二名の声に、なんとなく全員がその理由を理解したと思ったが、あえて誰も口に出さない。
先ほどとは違った、ひんやりとした、いたたまれない空気が流れる。
「そ、それじゃ、ぼくたち行くね」
「うん、またねぇ」
ひらひらと手を振ると、剣王と呼ばれる少年は、何事もなかったかのように背を向けてしまった。

   ***

「しゃべる亀とは驚きました」
洞窟を出てから、のんびりと言ったベルクートを、ダインが軽く睨んだ。
「ベルクート殿、亀に感心している場合ではないでしょう。危なかったのは貴方ですよ」
「いやー、怖かった。すごい殺気でしたねぇ」
カイルも、やれやれと安堵の表情を浮かべている。
「剣王か……確かに、たいした腕のようだ」
ゲオルグまでが呟き、王子は改めて何事もなかったことに感謝する。
この場にいる者たちは、滝の前にいた少年の実力を感じ取っていた。
こちらにも名だたる剣士が揃ってるというのに、彼はまったくひるまなかった。
それどころか、万一本気でやりあうことになれば、こちらにも甚大な被害が出る――。
たった一人を相手に、全員がそう直感したのだ。
「すみません」
別に自分が悪いわけではないのに、ベルクートが申し訳なさそうに言った。
普段ならば、自分を盾にしてでも誰かを守るのが役目。
いつもと逆の立場になったことが、少し面白かったのか。
照れくさそうに笑っている。
「でも彼は、本当にやる気はなかったですよ」
「え?」
「ミューラーさんという方はここにいないようですから。その人が見ていないところで私を倒しても、彼にとっては意味がないかと。喜んでもらえるかどうかも分からないわけですし」
「そういうもんですかねぇ……」
「その代わり、その方に喜んでもらえると分かった瞬間に、両断されそうです」
「――こわっ!」
あの笑顔のまま、剣を振り下ろす。
そんな姿が想像できるだけに恐ろしい。
大げさに身を震わせた後、カイルがにぱっと笑った。
「それにしても、ミューラーさんってどんな人なんですかね。剣王とまで呼ばれる子が、あそこまで夢中なんだから、きっとすごい美人ですよね!」
「カイル様ったら、不謹慎ですよ!」
「お前ときたら、そればかりだな」
リオンが怒り、ゲオルグが苦笑する。

――カイルの夢が打ち砕かれるのは、そう遠い日ではなかった。

   ***

「おい! おれの名前、いいかげん覚えたか?」
宿に野菜を届けに来た少年が、リヒャルトに指をつきつけた。
「えー……トムだっけ?」
「うがーっ! トーマだ、トーマ!」
「あははは、ごめーん」
ぶんぶんと振り回される手を避けながら、にこにことリヒャルトは笑っている。
これはこれで、いつもと変わらぬ平和な光景。
リンドブルム傭兵旅団が王子につくことになった時、リヒャルトは大喜びで滝から城にやってきた。
王子の、というよりは、文字通りミューラーの下に駆けつけたわけだ。
最初の頃は、リヒャルトの言動の予測がつかず、周りとうまくやっていけるか心配したものだが……。
本人が常々言い続けているように、ミューラーが王子の側にいる限り、彼も裏切ることはありえない。
そう皆が納得するまで、それほど長い時間は必要なかった。
「リヒャルトって、ほんとに人の名前覚えないなぁ」
二人のやりとりを眺めて、王子が苦笑する。
「リオンやカイルも、護衛の人、とか、女王騎士さん、とか呼ばれちゃってるみたい」
「……あまり覚えたくないのかもしれませんね」
「覚えたくない?」
人と親しくなるには、まず顔と名前。
そう思っている王子は、それを避けようとする気持ちがよく分からない。
「傭兵は、雇い主によって敵味方が変わります。リンドブルムは傭兵の中でも規律の取れた部隊ですから、前の雇い主の敵に回るような仕事はしませんが……」
それでも、昨日まで味方であったはずの人間に剣を向ける状況になることもあるだろう。
自分たちの意思には関わらず、それが契約した雇い主の決定なら。
それをリーダーが承認するのであれば、従うのみ。
そんな時、知り合いという存在は、隙を生む障害にしかならない。
――ならば、最初から親しくならなければいい。
「……寂しくないのかな」
同年代の友人もなく、親しい仲間もろくに作らず。
その反動がまとめて、誰かさんへの執着に置き換わっていると考えれば、納得できないこともない。
野菜の籠をマリノに渡している少年に、リヒャルトが手を振った。
「ええと、トーマ? おいしそーなの少し分けてよ」
「……疑問形なのが気に入らねぇが、ちゃんと言えただけマシだ。もってけ、ばかやろー」
籠の中から、特大の真っ赤なモノを取り、投げつける。
「ありがとー。……ミューラーさん、喜んでくれるかなぁ」
受け取ったトマトを眺めて、リヒャルトは嬉しそうに笑う。
「ほんとにリヒャルトはミューラーが好きだね」
「うん、大好きだよ」
その本人に、怒鳴られても、殴られても、まったく懲りない。
王子は、彼の徹底した気合いがちょっとうらやましくなったりする。
「……あんまり言いすぎて、嫌われたら怖い、って思うことはない?」
「うーん?」
それは考えたこともなかった、と目をしばたく。
「言わないで後悔するより、ぼくがどれだけミューラーさんのこと好きか知ってもらえる方が大事だと思うし」
本当に幸せそうな顔。
これだけ迷いのない好意を向けられて、笑み一つ返さない人間がいるはずが……。
いや、いたな、肝心の約一名が。
「リヒャルトってどうしてそんなにミューラーのことが好きなの?」
「ふふ、ないしょー」
すでに何度となく繰り返したやりとり。
リヒャルトはにこりと笑って返答を拒否する。
そして、ふと王子の隣に目をやって、首をかしげた。
「そういえば、貴方は聞かないね」
「え?」
「みんな、ぼくがミューラーさんのこと、どうして好きなのか聞きたがるんだけど」
「一番辛い時にそばにいてくれた人ではないのですか?」
あっさり答えたベルクートに、リヒャルトの笑顔が固まった。
普段のとらえどころのない表情が消え、信じられないものを見たような鋭い目が残る。
「……すみません、勝手なことを」
慌てて宿の手伝いに戻った背に、リヒャルトが言った。
「名前」
「え?」
「……名前。なんだっけ」
「ベルクートですが」
やっぱり自分も覚えられていなかったのか、と苦笑していると、リヒャルトがいきなり腕をつかんで歩き出した。
ベルクートの手から、片付けかけていたテーブルクロスが落ちる。
「ちょ、ちょっと?」
驚いた王子が声をかけても、リヒャルトは止まらない。
すでに表情はいつもの上機嫌な笑顔になっていた。
向かう先は、もちろんリンドブルムの部屋だ。
「ミューラーさーん、ヴィルヘルムさーん」
ずかずかと入っていくなり、上司二人ににっこりと笑う。
「この人、リンドブルムに入ってもらお?」
「「あ?」」
「「えええっ!?」」
前者の呆れた聞き返しがヴィルヘルムとミューラーで、派手に驚いたのが王子とベルクートだ。
「本人の意思は聞いて――ないな、この様子じゃ」
「うちの馬鹿が迷惑をかけた。忘れてくれ」
すっぱりと却下されて、珍しくリヒャルトがふくれる。
「えー、なんで?」
「じゃあ聞くが、なんでこいつを入れようと思ったんだ?」
リヒャルトが、首をかしげる。
「えーと。強いでしょ?」
「馬鹿、それだけで傭兵がやれるか」
「こいつは傭兵向きじゃない」
「えーーー」
「驚かせて悪かった。行っていいぞ」
謝罪なのか、出て行けという命令なのか、よく分からない口調でミューラーが、呆然としている二人に言った。
リヒャルトはあきらめずに食い下がっていたが、だんだん自分の希望を通したいのか、ミューラーになつきたいだけなのか、自分でもわからなくなっているようだ。
そーっと部屋から出て、しばらくして。
「……ああ、びっくりした」
ようやくほっとして王子が呟いた。
「リヒャルトったら、なんで、いきなりあんなこと言い出したんだろ」
「さぁ……」
驚きすぎて、先ほど何を話していたかも忘れてしまった。
疑問符に埋もれていると、テーブルクロスの下から、トーマの手厳しいお叱りが飛んできた。

その後、リヒャルトがベルクートをリンドブルムに誘うことはなかったが、名を間違えることもなくなった。
それが、どれだけすごいことか。
自分の名をまともに呼ばれた試しがない者たちにはよく分かっていた。



最期の瞬間まで、きっと何より大切な 弐へ

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