風の焉わる処、沙の三日月 第二章
その日、雷音寺の僧侶は、旅人から一つの碧玉を受け取った。
聞けば、西に向かっている間は持ち主を守護するのだが、別の方角へ行こうとすると、どうにも動かせなくなるという。
その旅人も、ここまでの道のりで盗賊に襲われそうになった時、炎の鳥がそれらを追い払ってくれたのだが、さて帰ろうとすると、荷を積んだラクダたちが一歩も歩かなくなってしまったのだとか。
玉が東に戻ることを望んでいないのだろうと判断し、東西の旅人が行き交うこの寺に預けることにしたらしい。
僧侶は、受け取った玉を陽にかざしてみた。
大きくもなく、小さくもなく、傷一つない碧玉。
光を受けると、紫めいた不思議な色にきらきらと光る。
さらに西の国で磨き上げられた青金石だろうか。
それとも、東の玉で有名な崑崙の産だろうか。
旅の途中、金持ちの目に止まれば高値で買い取られただろうに、それ以上に旅人の守護という噂が知られていたのかもしれない。
玉に意思があるとは思えないが、もしあるとすれば、その目的地はどこだろう?
今までその望みのままに、旅人たちの力を借りて移動してきたのなら、直にまた新しい持ち主が現われるのだろうか。
それまで預かっておくことにしよう。
僧侶は、新しい客を月が綺麗に見える椅子の上に置いた。
***
夜の見回りをしている時だった。
僧侶は、なんとなく玉を置いた部屋を覗き、灯を落としそうになった。
椅子には、見知らぬ若者が座っていた。
古風な服で、遙か東国の道士のようだ。
行儀正しく膝に手を置き、窓の向こうの月を眺めている。
生きた人間ではない証拠に、月明かりにその姿は透けて、向こうの壁が重なって見える。
玉には幽魂がついていたのか。
呆然していると、ふいにその者がこちらを向いた。
『あの……』
声をかけられて、僧侶はますます驚いた。
幽霊というものは、周りのことは目に入らないことが多い。
たまに分かる者がいても、近くの人間を同じ場所へひきずり込もうとするものだ。
しかし、この者からは、怨みや執着といった暗い情念は感じられない。
『ここはどの辺りでしょう?』
通りかかった場所で、道を聞いてみた。
たったそれだけのような普通の様子に、かえって拍子抜けする。
悪しき者でないのなら、恐れることもあるまい。
「鳴沙山の近くにある雷音寺です」
『鳴沙山……』
「昔は神沙山と呼ばれていたそうですが」
もしかしたら、かなり古い霊なのかもしれないと考えて、かつての地名を出してみる。
すると、心当たりがあったのか、その若者はわずかに微笑んだ。
『そうですか、僕はここまで来たのですね』
感慨深い呟きは、かつてこの地に来た事のあるからだろう。
ふいに、風が強くなった。
寺の建物全体が、揺すられるような轟音。
僧侶は聞き慣れてはいるもの、寺が壊れるのではないかと不安になることもある。
『この音は?』
「鳴沙山が鳴っているのです。風の音ですが、太鼓や銅鑼、行商隊の歩みにも聞こえるので、砂漠で倒れた人々の嘆きの声とも言われています」
低い音は苦痛の呻き、高い音は哀しい悲鳴に聞こえなくもない。
『悲しい声だ……』
若者は、そう呟くと辺りを見回した。
――刹那。
部屋の中の風景が変わった。
この建物と、いずことも知れぬ沙漠が重なっている。
ラクダで荷を運んでいる、数知れぬ人々が歩いているのが見えた。
僧侶には、東西を行き交う道のりの中、志半ばで倒れた者たちだと分かった。
彼らには、こちらは見えていない。
砂嵐に遭っているのか、顔を下に向けたまま、ただ黙々と歩き続けている。
『彼らはどこへ行こうとしているのでしょう』
「西へ来ようとしていたか、それとも帰ろうとしていたか……。どちらにしても、この町を目指していた人たちだと思われます。目的地を目の前にして倒れた無念さで、今もこうしてさまよっているのでしょう」
『この人たちは、魂になって此処に辿りついているのに、気づいていないのですね』
疲れ果てた表情でさまよう人々を、救いたいとは思う。
だが、こちらの声は、彼らに届かない。
それでも、少しでも聞こえる者がいるのなら、わずかでも仏の加護が届くように。
「世尊妙相具 我今重問彼 佛子何因縁 名為観世音……」
僧侶が懸命に観音経を唱える前で、若者が手を差し伸べた。
ふわりと、不思議な気が辺りに満ちた。
これは旅人を憩わせてくれる、大樹の気配だと僧侶は思った。
若者は静かに語りかける。
『あなた方は、もう目的地についています。ほら、立派なお寺が見えるでしょう? 沙漠の傍らには、月の形をした泉があります。風に揺れる柳の木、砂棗の花の香り、そよぐ葦の上を鳥たちが飛んでいくのが見えませんか?』
歩き続けていた人々が、立ち止まった。
今の声はどこから聞こえたのだろう、と不思議そうに辺りを見回している。
ふいに、彼らの顔に笑みが浮かんだ。
目的地を見つけた安堵。たどり着いたのだという喜び。
そして……。
人々の姿、一つ一つが小さな光となり、月明かりの中に消えていった。
いつのまにか沙漠の幻影は消え、砂を巻き上げる風の音だけが残っていた。
あれだけの人々を昇天させてしまうとは……。
「あなたは一体?」
『私は貴方よりも彼らに近かったので、声が届いたのでしょう。昔から人を、彼らの行くべき場所へ導くことが僕の使命だったのです。けれど……』
若者は寂しげに、視線を落として呟く。
『今も昔も、僕は自分の行く場所が分かりません』
旅人たちは、少なくとも目的地が分かっていた。
そこにたどり着きたいというのが、彼らの思い残した悔いだった。
彼の場合は、その場所が分からない、という悔恨でこの世に残ってしまったのだろうか。
しかし、亡くなった人ならば、たとえ仙道であっても輪廻の流れに入るべきでは。
僧侶の考えに気づいたのか、若者は静かに、だが凛として言った。
『僕は約束をしました。だから待っていないと』
それだけは譲れない。
強い意志が、この世から離れることを拒んでいる。
なるほど、これでは共感能力の高い動物たちが、彼の望まない場所へ向かうことを嫌がったわけだ。
人々を浄土へ導くのが仕事である僧侶としては、本来は成仏するよう説得するべきなのだろうが。
これまで数百年もの間、誰も手を出すことができなかった沙漠のさまよい人たちを救ってしまった者を、導こうなど、おこがましいにもほどがある。
彼自身が納得するまで、そっとしておくべきだろう。
『御坊。ここは、僕の知っている一番西です。しばらくここに置いていただけますか?』
「もちろんです。ここなら、東西の人々が行き交います。貴方を探す人が通りかかる機会も多いでしょう」
『ありがとう……』
その言葉と共に、月明かりが、雲に隠れた。
微笑みの気配を残して、若者の姿も消え、椅子の上には碧玉だけが残っていた。
青い玉は、静かに輝いている。
今までのことは、夢のようだ。
だが、あの鳴沙山の風の音から、悲しみの怨嗟の声が消えているのは確かだった。
明日から、この寺の他の僧侶や、旅の人々から、質問責めにあうに違いない。
自分はなんと答えよう?
御仏の慈悲です、とごまかすしかないなと苦笑して、僧侶は碧玉を大切にしまっておくことにした。
***
その日から、僧侶は毎日の読経の中に、そっと別の祈りを加えるようになった。
いつの日か、彼が待ちつづけている人に出会えるように。
終わり
旅人が東に向かおうとすると、すごーく重くなってラクダを動けなくしてしまう、子泣きじじいししょー。
お坊様が大切にしまいすぎて、テレパシーを遮断すると言われてる鉛の箱に入れちゃったりして、神将たちにも気配がたどれなくなっていたり。
風の焉わる処、沙の三日月 第三章
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